列王記講解

9.列王記上13:1-34『ベテルに関する預言』

13章は、12章において王国分裂後ヤロブアムが北王国のベテルに、エルサレム神殿に対抗するために築いた祭壇を破壊したヨシヤ王による宗教改革と結びつく預言が主題として論じられています。

ヤロブアムは、民衆の支持を得て北イスラエル王国の王となりましたが、王国分裂後も、北イスラエルの民は、巡礼にエルサレム神殿にもうでる習慣を止めませんでした。民の心が自分から離れていくのではないかと心配したヤロブアムは、民の心を自分につなぎとめるために、金の子牛像を二体作り、ベテルとダンに祭壇を築きそれぞれ安置し、自分勝手に考え出した礼拝儀式により、民を礼拝させました。列王記の記者は、「この事は罪の源となった」(12:30)といって、厳しく批判していますが、ヤロブアムは「自ら祭壇に上って香をたき」(12:33)その罪の道を離れようとしませんでした。

13章1節は、「主の言葉に従って神の人がユダからベテルに来たときも、ヤロブアムは祭壇の傍らに立って、香をたいていた。」と述べ、全然その罪を離れようとしないヤロブアム王の罪を改めて明らかにする言葉で始まっています。

ヤロブアムの下に来たこの人物は、ユダからベテルに「主の言葉に従って」やって来た無名の人物で、「神の人」であると言われています。「主の言葉に従って」生きていない者の罪を改めさせるために、「主の言葉に従う神の人」が遣わされました。彼は「主の言葉に従って祭壇に向かって呼びかけ、「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上でいけにえとしてささげ、人の骨をお前の上で焼く。』」と、およそ300年後に、ヨシヤ王(前640-609年)によって宗教改革の一環としてなされる、ベテルの祭壇の破壊を預言しました(列王記下23:15-20)。彼はその預言の真正性を明らかにするために、さらに「主のしるし」について語りました。

ヤロブアム王は、ベテルの祭壇にこのような不愉快な言葉を語る神の人を捕らえ、殺害しようとしましたが、ヤロブアムが彼に向けて伸ばした手が萎えて元に戻らなくなっただけでなく、神の人が告げたしるしが実現したことが述べられています。

この預言としるしは、ベテルの祭壇がヨシヤ王のときに破壊されるまでに、最初から穢れたものであり、何の神聖さも権威もないものであることを明らかにする出来事として記されています。

ヤロブアム王はこの不快な預言をする預言者を捕らえようとして伸ばした手が萎え、告げられたしるしがその通り実現したのを見、恐ろしくなり、神の人に、「どうか、あなたの神、主をなだめ、手が元に戻るようにわたしのために祈ってください」と懇願しますと、神の人は、ヤロブアム王のために、主にとりなしの祈りをし、ヤロブアム王の手は元に戻されたことが記されています。この出来事も、ヤロブアム王の宗教的な権威と、このベテルの祭壇とその権威の真正性の疑わしさと無力を明らかにする出来事として記されています。

自分の手が癒されたことを喜んだヤロブアム王は、食事の席を設け、神の人に感謝の礼を表したいと申し出ていますが、誰かと共に、食べたり飲んだりすることは友情のしるしとなります。ベテルとその祭壇にのろいを宣するために主から遣わされた神の人にとって、このヤロブアム王の申し出を受けて彼と共に食事をすることは、遣わされた自分の使命を放棄し、主の命令とその言葉にしたがって生きるものでないことを意味しました。それゆえ、彼はこの申し出に対し、きっぱりとした態度で退けました。

しかしこの後、この神の人に大きな誘惑の手が差し伸べられます。その誘惑の手は、ベテルにいる老預言者から差し伸べられました。ベテルの老預言者は、その日、ユダから来た神の人がベテルで王に告げた全ての言葉を、息子から聞き、神の人を追い、王が彼に申し出たのと同じ様に、一緒に食事をしようと申し出ています。

ここでも神の人は、「主の言葉によって、『そこのパンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻るな』と告げられているのです。」(17節)と答えました。しかし老預言者は彼を欺き、「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました。」(18節)と述べて、神の人がベテルについて預言した主の言葉を無効にしようと試み、見事に成功します。神の人はそれが欺きの言葉とは知らず、それを信用して、「彼と共に引き返し、彼の家でパンを食べ、水を飲んで」しまいますが、その食事の最中に神の人を連れ戻した預言者に主の言葉が臨み、「『あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられない。』」という主の審判がこの神の人に告げられ、ユダからやって来た神の人はこの預言どおり、神の裁きを受けて獅子にかみ殺されて死んでいます。

この話は読んでいて釈然としません。神の人は老預言者に欺かれただけなのに、なぜこんな厳しい神の審判を自身に引き受けねばならないのか釈然としません。確かに、人間の感情としては、この神の人に対してもっと神は寛容な心で情状酌量の余地を残された方が良いのではないか考えたくなります。

しかしパウロは、ガラテヤ人への手紙1章8節において、「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」と述べています。ユダから来た神の人は、直接、神から御旨を告げられ、それを忠実に実行することが求められていました。その変更を告げる者が、たとえ同じ職務を与えられている使徒や預言者であっても、天使であっても、聞き従って、自ら伝えた福音を曲げてはならないことが告げられています。

神の人は、この預言者の権威を受け入れ、その言葉に注意を向け、その言葉に聞き従ったことによって、彼は自分自身の預言者の召命に不忠実なものとなっただけでなく、自分を遣わされた神を辱めることになり、神との関係の正当性を否定してしまうことになりました。それゆえ、彼がヤロブアムに伝えた使信の正当性が守られる唯一の道は、神が彼を不実な裏切り者として扱われることでありました。それはまことに厳しい措置であるという思いが致しますが、どのような理由があろうとも、神の言葉を守るべく召された者のそのつとめに離反する行動は、いかに欺かれた結果と言え、そこには情状を酌量する余地は少しも残されていないことを、この物語は告げています。

それゆえ、彼はユダに帰る途中獅子に出会い、殺されてしまい、その預言が成就します。それはたまたま不幸な出会いによって起こった出来事ではなく、神の直接的な介入としてのみ解釈しうる死であることが明らかにされています。彼を連れ戻した老預言者が、「彼は主の御命令に逆らったので、主はお告げになった御言葉のとおりに彼を獅子に渡し、獅子は彼を引き裂き、殺してしまったのだ」(26節)と述べ、その死が偶然の出来事ではなく、神の直接的介入による死であることを告げています。それを証するのが、「獅子はなきがらを食べず、ろばも引き裂かずにいた。」(28節)という言葉です。獅子と出会ったのが偶然であれば、神の人は、獅子に噛まれ致命傷をおって死んだだけでなく、そのなきがらは見るも無残に食い荒らされ、ロバも引き裂かれていたであろうと思われます。「獅子はなきがらを食べず、ろばも引き裂かずにいた。」のは、神が直接介入されたからです。

主は、神の人を不実な裏切り者とし、このような死を経験させることによって、彼に与えた使信を守られたことを、ベテルの老預言者は32節において「あの人が、主の言葉に従ってベテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての聖なる高台の神殿に向かって呼びかけた言葉は、必ず成就するからだ。」と述べて明らかにしています。

彼をこのような死を味合わせる原因を作ったこの老預言者の欺きの行動を非難する言葉がどこにも見出せません。しかしこの物語を読んで釈然としない思いに駆られている読者に、この物語を書いた著者は、神の言葉を人の権威や何かによって幻惑されず、ただ神の言葉の権威にひれ伏して聞き、その使信を最後まで曲げず、証するものとしてふさわしく語るものであり続けるかを問い、神の言葉の権威はその者の生き様と一体のものとして、人々の前に証されていくべき事を明らかにしています。それに最後まで忠実を貫き通せない者を神は罰せられますが、そうすることにより神の言葉の真実を神ご自身が守られることを、物語は強調しています。神の言葉の真実を問われたのは、あくまでも神からベテルの呪いを語るべく召されたユダの神の人でありました。この物語において、ベテルの老預言者は、彼の信実と不信実とを明らかにする道具にしか過ぎません。それゆえベテルの預言者によって彼は不信実を明らかにされ、厳しい裁きを受けますが、彼が預言した言葉自体は、神の言葉そのものですので、その信実をそれ以後も明らかにし続けます。この人間の弱さや不信実によっても失われない神の言葉の信実と権威、そこに拠り所を置いて人生を、信仰を建て上げていく、そこにゆるぎない救いと喜びがもたらされます。この御言葉は実に厳しいように見えますが、この大切な点を見誤らないなら、実に大きな慰めを与えてくれます。

しかしヤロブアムは相変わらずベテルに築いた高台で神の最も嫌われる自分勝手な礼拝を行ない続けています。ヨシヤによる裁きの日が不可避である現実を明らかにする神の人の使信は、ヤロブアムが打ち立てた王国が絶滅させられねばならない事実を明らかにします。

13章の物語は、神の言葉に立ち続けることの難しさと、人間の弱さ、いつまでも悔い改めずにいる人間の罪深さを明らかにしますが、そうした人間の弱さや罪に打ち負けずに神の言葉が実現していく信実を明らかにし、御言葉の信実に断ち続けるよう私たちを招いています。

旧約聖書講解