列王記講解

3.列王記上3:1-28『ソロモンの結婚と知恵』

ダビデの王位継承問題は、ソロモンが王位に就くことによってけりがつき(1章)、王位をねらう敵対する者たちに対する処分も行われ(2章)、「王国はソロモン手によって揺るぎないものとなった」(2章46節)といわれています。3章は、ソロモンの統治がいかなるものであったかが物語られています。

導入部(1-4節)では、ソロモンの結婚生活と宗教生活が語られています。最初に、「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。彼はファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入れ」たことが報告されています。この事実が伝えている問題は少なくありません。第一に、ソロモンはエジプトのファラオの婿となり、エジプトの王室と親戚関係を結ぶことによって、エジプトと同盟関係になり、その権力基盤が揺るぎないものとなったことが明らかにされています。そのファラオが誰か不明ですが、このファラオは第23王朝を起こした強力なシシャク(14:25-28)の前の第21王朝最後のファラオの一人ではないかといわれています。このファラオは、海岸に沿った街道を見張ることのできるゲゼルの町をカナン人から奪い、その娘に与え、彼女はソロモンの王妃となり、ダビデの町に迎え入れらたといわれています(9:16)。神殿完成後、彼女はそこから宮殿に移されています。

ソロモンは、その後も権力基盤を確かにする政略結婚を多く行い、ファラオの娘を始め、多くの異国出身の王妃をそのハレムに召し抱えることになりました。しかし、彼女たちがソロモンの背信の原因となります(11:Ⅰ-13)。「彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。」(11:3)といわれています。

ソロモンがファラオの娘を嫁に迎え入れたとき、彼の脳裏にはその結婚によって自らの権力基盤をより一層確かなものにしようという思いしかなかったかもしれません。繰り返される政略結婚はすべてそのような動機からであると思われます。しかし、その多くの妻たちはソロモンの心を求め、彼女たちが持ち込んだ神々への忠誠、信仰をその夫たるソロモンに求めることになります。

聖書は、唯一の神への信仰を夫婦の関係として語ります。その結婚の神聖さは、互いを他の異性に関心を向けること禁じています。その愛の誠実に生きることと、神への信仰の誠実は同じ事として語られています。多くの異教の偶像の神々を礼拝していた背信と不信仰に生きたイスラエルに、預言者ホセアが立てられました。主から召しを受けた時,ホセアは「淫行の女をめとり,淫行の子らを受け入れよ」(ホセア1:2)という主の命令を受けました。彼はその召しに従い、淫行の女ゴメルをめとります。ホセアの結婚生活はまことに苦渋に満ちた悲惨なものとなります。姦淫の女に苦しむ夫の姿は,背信のイスラエルをなお愛して苦しむ神の姿そのものです。神はホセアに姦淫の妻を持つ苦しみを味合わせ、その苦しみを通して、神がいかにイスラエルの背信に苦しんでいるかを知らしめたのです。そして、「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。」(ホセア11:8)といって、その背信のイスラエルになお哀れみをかけ、見捨てられなかったのです。

ソロモンが異教の王の娘たちを、妻としえ迎え入れるその行為は、ここで決して是認されているのでありません。むしろ、「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。」(1節)という言葉は、ソロモンのエジプト王への従属的関係をにおわせ、その信仰の歩みに対する暗い影を匂わせる言葉として記されています。

そして2、3節は、エルサレムに神殿がない事実を物語りつつも、民もソロモンも「聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」というこの書の批判的な見解が示されています。「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが」という言葉も、後のソロモンの背信を予感させる書き方になっています。

「高台」は、豊穣多産を願うカナンの神々にいけにえをささげる場所でありました。しかしこの時ソロモンが、「重要な聖なる高台がある」ギブオンに行き犠牲をささげたのは、エルサレムに神殿がないためのやむ得ないものとして、強く非難されていません。

ソロモンは政略結婚という人間の力による将来の繁栄を確保しようという面だけをもっていたのではなく、「主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだ」(3節、2:3-4参照)敬虔さを持ち合わせていました。それ故、ソロモンがギブオンで犠牲をささげて礼拝を守った夜、主はソロモンの夢の中に現れられました。そして主は、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と告げられたので、ソロモンは、忠実で、真実な信仰をもって歩む父ダビデに、主は、豊かな慈しみ(ヘセド)を絶やされなかったこと、自分は、それに比べ、取るに足りない小さな者であることを述べた上で、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」(9節)と述べて、知恵を求めたといわれています。

ソロモンは、父ダビデが私利私欲を捨て、主の前を忠実、誠実に歩んだように、自分も歩みたいと願っています。主はそのようなものに「豊かな慈しみ」(ヘセド)を示されたといっています。ヘセドは、親と子・友人同士など、人と人とを結ぶ絆のことですが、この絆には二つの面があります。一つは、両者を結ぶ愛であり、他はその愛に対する誠実さです。ヘセドは単に人が持つ自然な情愛を意味するだけでなく、その愛にとどまりつづける責任をも意味します。ダビデを選ばれた神は限りないヘセドを持ってダビデを知ります。神に知られ、愛されたダビデは、ヘセドを持って神を愛します。このように両者の間をヘセド(慈しみとまこと)が行き交います。これが神と民との間にある交わりであり、「契約」とは、ヘセドによるこの交わりのことです。

ソロモンが求めたのは、このヘセドに基づく、主に奉仕するものとしての愛です。そこから派生する主にある「知恵」です。

「主はソロモンのこの願いをお喜びになった。」(10節)といわれています。普通、人(王)は長寿を求め、富と繁栄を求め、敵に勝利することを求めます。しかしソロモンは、「訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。」(11節)それ故ソロモンの求めに感心した主なる神は、「見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」(12-14節)と答え、知恵だけでなく、富も栄光も与え、さらに父ダビデの道を歩むなら、長寿をも与えるとの約束を語られます。

ソロモンはこれらの言葉を、夢の中で聞いたということは、主がイニシアチブを取り、主がそれをソロモンに啓示されたことを意味します。言い換えればソロモンの発揮する知恵の力は、人間の経験的な知識というよりも(それが排除されているわけではないが)、神から授けられたものであることが強調されています。

こうしてソロモンは、主なる神から「知恵に満ちた賢明な心を与えられ」、その知恵がやがて世界に轟きわたるようになります。

古代において王の重要なつとめは、民の間の争い事を裁く、裁判官としての働きがありました。ソロモンはまさにそのつとめのために神の知恵を求めたのです。

そしてソロモンが示した知恵がどのようなものであったか、16節以下に物語られています。王のところに「遊女」が裁きを求めてやってきて、王がこのような二人の争い事を聞き、裁きを行うことに驚きを覚えますが、これも珍しいことではなかったことです。王は民のあらゆる争いごとを裁く権能が与えられています。というよりも、平時における王の主要な仕事は、法廷での裁判官のつとめでありました。ここに登場する二人の遊女は、神殿娼婦ではなく、ラハブ(ヨシュア2:1-6)のように、宿主で売春もしていたそういう人たちでありました。

この二人の遊女は同じ家に住んでいて、三日違いで互いに子を出産し、一人の遊女が赤ん坊に寄り添って寝ていたとき、寝返りを打ち赤ん坊に寄りかかって死んでしまったため、もう一人の遊女の生きている子を、その遊女が寝ている間に、盗んで、自分の子供として育てようとしていると、その子の本当の母親である遊女が、訴えましたが、もう一方の母親も同じように言い出しました。この事件には、具体的な目撃証人をできる第3者がいません。ですからあるのは二人の同じような主張しかありません。それをソロモンは、裁判官として裁かねばならないのです。ここに問題解決の難しさがありました。この問題をいかに解決するかソロモンの知恵が求められました。

ソロモンは、誰が本当の母親であるかを判定するために、その生きている子を剣で二つに引き裂くように命じました。すると「 生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、『王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください』と言いましたが、もう一人の女は、『この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください』と言ったといわれています。

ソロモンは、この極端な解決方法が本当に実行されることを望まず、本当の母親をはっきりさせられることを望みました。そして二人の娼婦の発言を聞き、ソロモンは、この子を何とか生かそうとした女性こそ本当の母親であるという判決を下しました。この王の裁きはたちまち人々の知るところとなり、「イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった」といわれています。その理由が、「神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。」と述べられています。

この最後の言葉は、王の知恵、裁きの基礎には、神の知恵があります。このときソロモンに与えられた神の知恵は、超自然的な上よりの直接的な啓示によるのでしょうか。そういう面がなくはありません。しかし,いつもそのようにしか与えられないものでもありません。神の知恵は律法(聖書)に明らかにされています。御言葉に聞き,仕えようとする者に、聖霊の導きが与えられ、知恵が授けられます。そして、その知恵を第一に求めるものに、必要な他のものを与えられる主の恵みも示されているのは大きな慰めです(マタイ6:33)。

旧約聖書講解