サムエル記講解

29.サムエル記上28章3―25節『口寄せ女を訪れるサウル』

ここには、ギルボアの決戦を前に、サウルが口寄せ女を訪ね、神意を確かめようとするエピソードが記されています。

3節の冒頭にサムエルの死と、サウルが口よせや魔術師の追放を告げる言葉が記されています。サムエルの死についてはすでに25章1節で報告されています。サムエルは王に油注ぎ、主なる神の御旨を告げる重要な役割を担っていたので、その死はサウル王に神の御旨を告げる偉大な人物が失われたことを意味します。サムエルは、アマレク聖絶命令に反したサウル王に、「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。」(15:23)と告げて、その日以来死ぬまで、「再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いて」(15:35)ついに逝きました。またサウルは、祭司を殺し(22章)、預言者たちとも敵対関係にあり(19:19-24)、神の意思を正当な手段で取り次ぐ者を自ら遠ざけていました。しかし、律法で禁じられている口寄せや魔術師(レビ20:27、申命18:10―14)を追放する敬虔な面も持っていました。しかしこのことは、神の御旨を取り次ぐ真の手段だけでなく、異教的な方法による神の託宣を求める手段も完全に失うものとなっていたことを意味します。これが、3節が伝えようとしているサウル王の置かれている宗教的な現実です。

サウルはそのような状況の中で、ペリシテ人との戦いの時を迎えていました。ペリシテ軍はシュネムに陣を敷き、イスラエル軍はギルボア山に陣を敷き、向かい合っていました。しかし、人数、武力の上で、イスラエルをはるかに凌ぐ軍事力を持つペリシテの陣営を見て、サウル王のこころは恐怖に包まれました。

サウルはこの危機をどう克服すべきか主の託宣を求めようとしました。しかし、彼のもとには、主の託宣を求めるウリムがあり、預言者がいたとしても、それを真実に扱う者はいませんでした。それらの預言者は神に仕える者ではなく、サウル王に仕える偽預言者であり、偽祭司たちでしたから、そうした者が神の御旨を取り次ぐことはできませんでした。サウルは夢によっても主の託宣を知りたいと願いましたが、主はそれによっても答えられることはありません。彼は宗教的敬虔さを持ち合わせる王でしたが、主が遣わす者を退けたため、主は彼のなす行為を偶像的行為として、その行為も彼の存在も退けていました(15:22-23)。

サウルはこのように何の主の託宣も受けられず、万策尽き、絶望の淵にありました。そこで彼は主に悔い改めたかというとそうはしないで、国内から追放していた「口寄せのできる女」を呼び戻そうとしました。「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。 あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。」(申命18:10-14)この教えに従い、サウル自ら退けていた「口寄せ女」を再び呼び寄せようとしたのです。「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。」(レビ20:27)とされていた行為をサウルは実行しようとしていたのです。困窮した時に藁にもすがる思いで宗教的な手段に訴えるサウルの宗教性は、最初の悲劇的弱さを想起させます。その結果は、「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」(13:12-14)というものでした。

この王の意思が伝えられると彼の宮廷に仕える家臣は、王のなそうとしている行為の愚を進言する者たちではなく、即座に「エン・ドルに口寄せのできる女がいます」(7節)と答えられる者たちでありました。言い換えれば、王が禁じていた「口寄せ」が公然の秘密のように宮廷ないで行われていたことを意味します。

かくしてサウルは夜の闇に乗じて、二人の兵を護衛にして自らそこに赴きました。エンドルはシュネムのさらに北にあり、敵陣の背後にありましたので、敵陣を迂回していかないと行けないきわめて危険な企てをサウルは敢行しました。しかも自分がイスラエルの王であることがわからないように、変装して敵にも口寄せ女にも気づかれないように行動しました。

サウルは口寄せ女にあって早速「口寄せの術で占ってほしい」と依頼しますが、女はまだ相手が誰であるか気づかず、その依頼に躊躇し、サウルが発布していた禁令を盾に拒もうとしました。それが死罪にあたることが告げられていたからです(レビ20:27)。しかし、サウルは神にかけて誓い、その行為のゆえに咎を受けることはないと保証したので、女はこの要請を受け入れ、サムエルを呼び起こしします。この時、呼び起こしたサムエルの姿を見たとたんなぜ、この依頼の主がサウルであると口寄せ女が気づいたのかその理由はわかりませんが、彼女は、驚き恐れ、サウルに向って「あなたはサウルさまではありませんか」と叫びました。サウルは「恐れることはない」となだめて、彼女の見たものが何かを尋ねました。サウルは彼女の告げる言葉を聞いて、彼自身はその姿を見たわけではありませんが、それがサムエルであることにすぐに気づいて、地面にひれ伏しました。

口寄せというのは、死者の霊を呼び出しその意思を尋ねる一種の交霊術ないしシャーマニズム(原始宗教の一形態で、神霊や祖先の霊などと、シャマン=巫女を仲立ちとして心を通わせる)で、イスラエルで異教的なものとして厳禁されていたこの行為によってなぜサムエルが現れたか、このサムエル記の著者は何の批判もなく、その事実を報告していますが、これによってこの行為が是認されているわけではありません。

サウルは禁じられていた方法でサムエルを呼び出すことに成功しますが、そこで聞かされる主の御旨は決定的な裁きの言葉でありました。「主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。…主はイスラエルの全軍を、ペリシテ人の手に渡される。」(16-20節)というものです。主は御声に聞き従わないサウルを退け、王国を引き裂き、その王位をダビデにお与えになる。アマレク聖絶命令に反したこの王にはもはや何の主の憐れみも期待できないことをサムエルは告げます。

サウルは、サムエルに会い、懇願すれば何らかのよき主の御旨が聞けるだろうと期待していましたが、結果はまったくその逆で、これを聞いた途端、ショックを受け、「地面に倒れ付して」(20節)しまいました。サムエルの言葉におびえ、何も食べることができなくなり、力が尽きてしまいました。

ある意味でダビデ以上に宗教的であり、敬虔さをもっていたサウルですが、その敬虔さは、神とその意思をたえず自分の希望するように引き寄せようとする生き方でありました。サウルは最後まで神の御声に聞き従う信仰、敬虔というのを知ることはありませんでした。彼が託宣を求めたサムエルは、若き日に「主よ、お話ください。僕は聞いております」(3:9)という御声の聞き方を学び、御声を取り次ぐ者となってからもその姿勢を崩さず生きぬいた預言者でありました。彼の失望と挫折は、この預言者から、この信仰を学び、この信仰に生きないところから来る結末でしかありません。この失意の中にあるが、悔い改めて主の下に立ちかえろうとしない者に、神の預言者サムエルがもはや慰めをかける言葉は残されていません。

この失意にある惨めな王を慰めたのは、エンドルの女霊媒師です。主によって禁じられ、死に値する行為を売り物にしている人物から、慰められ励まされて、食事を勧められ、彼女が作る心のこもった手料理で腹を満たして夜のうちにそこを立ち去って帰る、ここにサウルのまことの神に背く王の惨めな最後の姿が在ります。この食事こそ、サウルの「最後の晩餐」になったのです。主なる神を中心にした主の民と共に食する「最後の晩餐」ではなく、主の民が誰もいない、異教の女霊媒師の手料理で食する孤独な食事、これがサウル王の「最後の晩餐」でした。彼女のところを夜のうちに訪ね、夜のうちに去る、闇に包まれたその最後、光のない最後を予表するに十分な舞台がここにあります。しかし、そのかなたに朝があります。サウル王にとってあまりにも希望のない朝であっても、イスラエルの歴史において一つの大きな苦しみの朝であっても、その朝はやはり希望につながっていました。それは、彼の死は、ダビデの追跡者がなくなり、ダビデが王として確実に歩み出す朝でもあったからです。日は沈み、日はまた昇ります。その日は神の御声が実現する朝です。

人の思惑に翻弄される無力に見える神が与える朝です。その朝を迎えさせるのは、同じく自分の思いで未来を切り開こうとして切り開けなかったダビデを挫折させて、ご自身の計画のなかで歩ませる神です(29:11)。

旧約聖書講解