サムエル記講解

18.サムエル記上17章1-58節 『ダビデとゴリアト』

本章には、ダビデが巨人ゴリアトを倒した有名な物語が記されています。この物語は読んでいて実に楽しく、励ましを与えられる物語でありますが、物語の記述には多くの矛盾も見られます。その矛盾の中でも特に困難を覚えることが二つあります。

第一は、下の21章19節で、エルハナンというダビデの家臣がガト人ゴリアトを打ち倒した勇士として紹介されていることと、どうこの記事が調和するのかという問題です。

第二の困難は、この物語は16章のダビデの油注ぎや、サウルの宮廷に既に召し入れられていたとする記事が少しも前提されていないことです。それどころか55節以下にはサウルとダビデはまったく面識がなかった書き方がなされていることや、同じ17章の中にダビデの言葉を聞いてサウルが対面して、ダビデに自分の装束や武具まで与えようとしたサウルが55節ではダビデのことをまったく知らない者のように遇しているのも、不自然です。

サムエル記の記者は、ダビデの武勲やサウルの宮廷に入った次第についての様々な伝承を相互に矛盾があっても、殆どそのままの形で縫合しながら、その神学的な意味から出来事の意味を解釈していったため、こうしたテキストの矛盾が生じたのでしょう。

サムエル記が伝えようとしているのは次の事柄です。小さな存在でしかなかったダビデが、神の摂理により、偉大な人物となるべき道に載せられ、彼は王に評価されて召抱えられ、皇太子とは誓いを立てて友情・義兄弟の関係を結び、その勇敢な武勇のゆえに皇女の婚約者となったということです。それにより、ダビデは決して王位簒奪者ではなく、神の配剤と意思に基づく合法的な後継者であるということです。

ですから17章が描くダビデ像は、神の摂理によって動かされて台頭した新しき王のなるべき人物の姿です。

1-3節には、イスラエルとペリシテとの戦いの舞台となった場所が紹介されています。それは、エルサレムの南西27キロ、ベツレヘムからは西方20キロの所にある丘陵地帯です。ペリシテはアゼカまで占領し、エラの谷を隔てて向こうにあるソコの町も占領しようと戦いを挑んでアゼカに陣を敷いていました。

ペリシテには、身長280センチを超える(1アンマはひじから中指の先までの長さで約44センチ、6アンマ半だとこうなる)巨人ゴリアトがいました。ゴリアトは57キロ(1シェケルは11.5グラムだから5千シェケルだとこうなる)もある青銅製の鎧を身につけ、頭にも青銅の兜をかぶり、肩にはその穂先は7キロもの重さのある鉄でできている青銅の投げ槍を背負っていて、どのような攻め手もつけこむすきもないほどに完全な防備を固め、しかもその重い武具を自由に操れる強靭な体を持つ巨人の存在自体がイスラエル人にとって恐るべき脅威でありました。

ゴリアトはこのような恐るべきいでたちで毎日表れ、イスラエル人に一騎討ちを挑み、戦いに敗れた者が奴隷となることを決めようと呼びかけました。一騎討ちで戦闘を開始するという風習は旧約聖書にもないわけではありませんが(下の2章14節以下)、どちらかというとギリシャの習慣でありました。それは非セム的地域からやって来たペリシテ人の習慣によるものです。ゴリアトは自分にあえて戦いに挑む者などイスラエルにはいないと侮り、愚弄し続けていました。ゴリアトのこの行為は、サウルやイスラエルの王位に対する愚弄であるだけでなく、イスラエルの神をも愚弄するものでありました。しかし、その重要で深刻な事態を明らかにしたのは小年ダビデです。

ダビデの兄であり、エッサイの年長の息子エリアブ、アビナダブ、シャンマの三名は、サウルにしたがって戦場に出ていましたが、ダビデはサウル王に仕えたり、父の羊の世話をしていました。そのダビデが戦場に行き、ゴリアトと出会い、彼と戦うきっかけになるのが、戦場にいる兄たちに食料を調達するための使いを父からいいつけられて出かけていった時のことです。

ダビデが食料を携えてイスラエルの陣営に来た時は、丁度、兵が鬨の声をあげて戦線に出るときでした。ダビデは持参して来た食料を武具の番人に預け、兄たちの安否を尋ね、兄たちと話している時に、ゴリアトがいつも叫んでいる言葉を聞きました(23節)。しかし、この言葉を聞いたイスラエルの陣営は、後退し、恐れに包まれ、一人の兵士が次のように語りました。

「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」(25節)

このゴリアトとイスラエルの兵士の言葉を聞いて、ダビデは周りにいる兵士に、「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」と尋ねます。兵士は繰り返し王が与えた約束を語りますが、ダビデにはその意味は理解できず、それには少しも関心を示していません。ダビデの関心は、「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者か」ということです。ダビデの関心は、イスラエルにはこのような「生ける神の鮮烈に挑戦する」割礼無き者を征伐する兵士はいないのか、という一点に絞られていました。しかし、ダビデがそのような関心を持って兵士と話しているのを、長兄のエリアブは快く思わず、ダビデをたしなめます。ダビデはこの長兄のたしなめに動じず、他の兵士にも前と同じことを尋ねています。

長兄は「大人の問題」に口を挟むダビデをたしなめようとしましたが、ダビデは思い上がりや冒険心から「大人の問題」に口を挟んだのではありません。ヨセフの夢の場合のように(創世記37章)、この少年の背後に神の秘密の計画が潜んでいました。エリアブはダビデを批判しますが、このことがきっかけとなって、この不思議な質問を熱心にする不思議な少年のことをサウル王に告げる者が現れ、ダビデはサウルに召し寄せられる機会を得ます(31節)。

サウルの前に出たダビデは臆すること無く王に、「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」(32節)申し出ますが、 サウルはダビデに「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」と答えます。

サウル王はこの勇気のある美少年の言葉に興味を持ちましたが、どこから見ても強そうに見えないこの少年の言葉をまともに聞くことはできません。「お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ」という言葉が全てを物語っています。

しかし、ダビデは羊飼いとして獅子や熊と戦い、羊をその危険から救った武勇を語り、「わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」(36節)「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」(37節)と王に語りました。ダビデはここで、サウル王やイスラエルが失っていた信仰の問題を語っています。少年でしかないダビデを用い、神は、ダビデを用い、羊を獅子や熊から救い出した方です。だから、割礼のない神なき異教の偶像崇拝者であるペリシテ人の手から救い出してくださらないはずがない、いや必ず守ってくださるという信仰をダビデは示しました。ダビデにとって、ゴリアトは神に敵対する勢力の代表に他ならない存在でした。ダビデは、いかなる事態の中でも主なる神を信頼してやまない純朴で大胆な信仰者でした。神はこの純朴な信仰者を摂理の道具として用いられます。

サウル王の「行くがよい。主がお前と共におられるように」という言葉は、まさに神の摂理に委ね、派遣する言葉です。サウルは、自分の装束を与えて、ダビデをゴリアトとの戦いに、王の公認の兵士として送り出そうとしました。しかし、少年のダビデには、青銅の兜や鎧や剣などは、重くて身動きを自由にとることはできません。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」といって、ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取り、「川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして」(40節)、ゴリアトのところに向って行きました。

3メートル近い身長のある巨人ゴリアトは重い武具で身を固め、いかにも強そうでつけいる隙がないばかりか、その強い力で振り回す槍に当たれば、ゴリアトの身長の半分もないであろうダビデはひとたまりもありません。しかもダビデは、鎧もつけず、刀も持たず、羊飼いの杖を片手に、もう一方の手には石投げ紐をもっているだけです。まだひげも生えていない紅顔の美容年ダビデが表れたのを見て、ゴリアトは侮って、「さあ来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」といいました。ゴリアトに立ち向かおうとする者は、イスラエルにはダビデが現れるまで一人もいなかったのです。そして、ようやくゴリアトに立ち向かい戦いを挑んだのが、いかにもひ弱そうな少年のダビデだったのです。本当の怖さを知らない子供が、お相撲さんに向っていくような、真剣な眼差しは、ほほえましく、とても可愛らしいし光景ですが、ダビデはまるでそんな姿でゴリアトの前に現れました。人の目で見れば、これは戦いになりそうにありません。ダビデが本気で、ゴリアトも本気で戦えば、ゴリアトの言葉が真実の結果をもたらしそうな雰囲気です。

しかし、ダビデはゴリアトに向かって、「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(45-47節)と告げました。

ダビデの信仰は、主なる神からイスラエル求められた信仰です。

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を唱える。
彼らは力を失って倒れるが
我らは力に満ちて立ち上がる。(詩篇20:8-9)

というのがイスラエルに求められた信仰です。預言者イザヤも同じようなことを語っています(31:1-3)。

2章には、サムエルを与えられたハンナの祈りが記されていますが、ハンナの祈りには、「勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。(2:2)…弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。(2:8)」とあります。

イスラエルには、その名だけで最強の戦士をも屈服させるのに十分な神がいます。このことを割礼なき、まことの神を拝せず、偶像の神々の名で、まことの神を侮るペリシテ人は、否、全世界は知るべきなのです。ダビデがこの神について語ります。この神が助けるのに、剣も槍も必要としません。弱き者を通じて強き者を滅ぼすことができます。ダビデはそのことを強調して語ります。

「ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」この言葉は,今を生きるわたしたちに語られている言葉です。教会に向けられたメッセージです。神を礼拝し、御名の力に委ねて生きる「ここに集まったすべての者」は弱い者たちですが、主はそのものたちの信仰を用いその支配と力を現せられるのです。ダビデは自分の仕事に使う石投げを用い、たった石ころ一つ、石投げを一回振り回し投げただけで、巨人ゴリアトを倒しました。神はその与えられている持ち場での仕事に忠実に生きる少年の業をも用いられるのです。もちろん、この業は、神の恵みです。しかし、神は神の歴史支配を信じ信仰を持って自分の仕事に打ち込む小さき者の業をも省み、その歴史を導かれるのです。ダビデは巨人ゴリアトを倒し、無名の少年からサウル王に召抱えられるものとなり、神の摂理的な導きのもとに王への道を歩むことになります。しかし、その道は決して平坦ではありません。

パウロは30代の年齢であったテモテに向って、「 あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」(Ⅰテモテ4:12)といっています。主の前に若くて弱い存在は、ダビデのような少年だけでありません。テモテのような立派に成人している大人も、まだまだ若いのです。ましてやわたしたちの信仰は若くて未熟です。しかし、そのような未熟さを持つものであっても、主は用いられるのです。ダビデのように無垢な心で主に信頼し、主の名誉のために献身しようとの志を持ち、日頃のつとめで自分を磨く小さき者を神は顧みられるのです。

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