ヨナ書講解

4. ヨナ書4章 福音する神と預言者

本章は、ニネベの救いに対するヨナの抗議と主の答えが記されています。ここには、狭いユダヤ主義の信仰を相克させる徹底した主の恩寵による福音理解のあり方を示す主の言葉が記されています。最後に記された主の言葉は、「ヨナよりも勝る者」として出現する新約のイエス・キリストの福音を指し示すものであります。

ヨナは、「救いは、主にこそある」(2:10)と告白していますが、主にこそある救いは、選民であるユダヤ人だけに与えられるものであると考えるユダヤ主義者でありました。だから、二度目のニネベへの宣教命令に従っていても、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という主の審きの言葉は、文字通りそのまま行なわれることを期待してヨナは告げました。

しかし、ヨナがニネベに審きの言葉を告げると、その言葉を聞いたニネベは悔い改めました。そして、主はニネベの悔い改めを見て、下そうとしていた災いを思い直され、やめられました。

この結果はヨナにとって意外でありました。ヨナは主の救いは主の選びの民ユダヤ人にのみ与えられるものと信じていたからです。ヨナは、その信念に基づき、憤り、公然と主に抗議しています。

ヨナはこのところで、主の命令に背いてなぜタルシシュに行ったかその理由を、「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(2,3節)、と述べています。ヨナはこの点で正しく主を見ていました。にもかかわらずヨナの信仰は、ユダヤ主義の狭隘さを克服していなかったのであります。ヨナが見ていた通り、主は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」でありました。その様な神として、ニネベに下そうとしていた災いを思い直されたのでありました。ヨナは自らのユダヤ主義の信仰から、この結果に対する不満、憤りを表明し、自分の期待した信仰に答えない主に対してヨナは、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」といって抗議の思いを込めて願っているのであります。

ヨナの信仰は「こうあるべきだ」というところに立つ信仰であります。そして、我々もまたその様な信仰に立つことが多いのです。こうあるべきだという願望は、「恵みと憐れみの神」としばしば対立すします。神に自分の思いの中で行動してもらおうとするのであります。

しかし、主は「お前は怒るが、それは正しいことか」(4節)とヨナに向かって問われました。それはまるで主がヨブに対していわれた言葉のようであります。

「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を暗くするとは。」(ヨブ42:3)

ヨブに向かって問われたように、主はヨナに向かって、「お前は怒るが、それは正しいことか」と問われます。しかし、この言葉に対してヨナは直ぐに答えていなません。かつてエリヤは自分の命を取ろうとする敵の攻撃を受けて主に対する疑いの呟きの言葉を述べました(列王記上19章)。エリヤの呟きは、宣教の挫折と迫害がその理由でありましたが、ヨナの場合は、反対に彼の意図に反して宣教は成功しています。ヨナは、その結果によって、彼の信条が拒否され、神の恵みによって自分の信念が崩れ去る危機を感じて、主に公然と抗議しているのであります。エリヤは見えない神の偉大さにまでその信仰を飛躍させることができませんでした。そして、ヨナは神に敵対して生きていた異邦人まで悔い改めさせ救いへと至らせる恵みと憐れみの神の偉大さによって、その信仰の狭隘さを克服することができないでいます。

「お前は怒るが、それは正しいことか」という主の問いに対するヨナの答えがないままこの物語は続きます。「ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。」(5節)そして、主は、ヨナを強い日射しによる暑さの苦痛からから守るためにとうごまの木に命じて芽を出させました。ヨナはこの快適さに不満は消え、とうごまの木を大いに喜びました。しかし、翌日神は虫によってこのとうごまの木の葉を食い荒らさせた上で、東風を吹き付けるように命じられたので、ヨナはあまりの暑さで死を願うほど苦痛を感じ、「生きているよりも、死ぬ方がましです」と呟きました。

このように怒りを示すヨナに向かって神は、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」(9節)と問わます。ヨナがとうごまの木のことで怒りを表すのはある意味で当然であります。なぜなら、ヨナには何故とうごまの木が突然はえてきて、また何故突然枯れたのか、その理由が分からないからであります。それは、神の業であったからです。ヨブが「これは何者か。神の経綸を暗くするとは」と問われたように、ヨナの怒りは人間的には当然と思えても、人間の目に見えない神の深い計画を自分の願わない違った結果となって現れたからといって、神のなさるわざに怒りを表明することは間違っている、との主の問いかけがここにはあるのであります。

しかし、ヨナは最後まで主の驚くべき恵みと憐れみに満ちた計画の実現を、喜びをもって知ることができなかったのであります。

そして、「それは正しいことか」との主の問いに対して、ヨブは「もちろんです」と答えています。

ヨナはとうごまの木が生えるように自ら祈り願ったわけでも、それに水をやって管理していたわけでもありません。とうごまの木の生えること枯れること、そのいずれもヨナの意志とかかわりなく存在しています。そのことに対してヨナは何の関わりもしていないのです。そのところに木をはやそうとしたのは神であり、ヨナは自ら労しもせずにたった一日といえどもその快適さを喜ぶことができたのです。それは、主の恩恵として与えられた喜びであり、救いを意味していたのであります。

ヨナにこの事実に目をむけさせるため主は、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(10,11節)と答えておられるのです。

主は小事に目を向けさせ、より大きなことへと目を向けさせようとしているのであります。ヨナは自ら労して育てたわけでもないとうごまの木が一夜で枯れたことを惜しんでいる。それならば、神の恵みによって選ばれた者だけでなく、これまで神の救いに与ることなかったニネベに多くいる異邦人や罪人に同情しない神は矛盾ではないか、とヨナに問うているのであります。

この物語は、神の恵みは悔い改めた異邦人にも与えられるのが正当であるとの神の言葉で終わっています。それは、神の恵みを選ばれた民にのみ限定して、異邦人をその救いから排除しようとするユダヤ主義の排他性と徹底して対立しているのであります。そして、この物語は、神の救いと宣教の担い手が、人の意志によるのではなく、神とその意思であることを徹底して語っているのであります。神は、神に反し罪を犯す預言者を海の嵐のただ中でその罪を明らかにし、そのもとから逃れようとする預言者を、神の審きの下に立たせる方であります。

預言者ヨナがいみじくも語ったように、神は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」この恩恵、愛によって、神は異邦人の町ニネベを「十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいる」といって惜しまれたのであります。これらの言葉によって、人の救いはただ神の恵みと憐れみにのみ依ることが明らかにされているのであります。この恩恵の前に、選民意識による特権を主張することの誤りが徹底して正されているのであります。そして、物語はその後ヨナがどうしたか、どうなったかなにも記していません。主の恩恵の言葉だけが記されて閉じられています。

ヨナ書は、異邦人にも向けられた主の恩恵の言葉で結ばれています。主の救いは、ユダヤ人の都エルサレムを越えて遠くニネベへと達する。そしてそれは、新約の「エルサレムから地の果てまで」という主イエスの約束に繋がっているのであります。

主イエスは、ヨナのしるしというなぞに満ちた言葉と共に、「ここに、ヨナにまさるものがある」(マタイ12:41)といって自らを指し示されました。その言葉には、大魚の腹に三日三晩いたヨナが救われた姿を自らの十字架と復活のしるしとして語り、ヨナ書に示された恩恵の救いが「死から命へ」のものとして、正しく神の恵みのみによる差別なき救いとして、男も女もユダヤ人も異邦人もない奴隷も自由人も差別されずに等しく与えられることが語られているのであります。ヨナは自らの罪の故に苦しみ、消極的に神の福音を異邦人に開く働きにつかせられました。しかし、主イエスは罪人の罪を背負い十字架の道を歩まれ、復活の恵みとその福音を罪人にもたらされました。いずれも神の恩寵の勝利を告げて終わっています。ヨナ書は恩寵の勝利をもたらす神を最後に指し示し、新約の福音を待ち望むよう準備して閉じられています。

その後ヨナはどうなるか、それは、われわれ自身の福音の前におけるあり方の問題であります。その答えがないのは、われわれ自身が新約の福音の前に応答しなければならない問題としてあるからであります。

旧約聖書講解