サムエル記講解

17.サムエル上16:1-23 ダビデ、油注がれる

16章は、ダビデに対する油注ぎとサウル王の下で仕えるダビデについて記しています。サムエル記はここから、「サウルとダビデ」の物語が下の1章まで続きます。しかし、その中心はサウルではなくダビデです。16章の油注ぎは、サウルからダビデへの転換が主の意思とイニシアチブの中で行われたことを明らかにしています。

サウルは、主の油注ぎを受け、主によって民の指導者、王とされた最初の人物でありましたが(10章1節)、アマレクに対する聖絶命令を忠実に実行せず、「神の心にかなう」王でないことを決定的に明らかにしてしまったため、王位から退けられることが明らかにされました(15章)。神の民を支配する王は、神の恵みを受けた人物、神の召命を受けた人物として、本当の意味で神の手によって動かされる道具でなければならなかったのです。

しかし、サウル王とともに王国の歴史は終わりません。彼に代わる新しい神の御心を行う王を、神はまた用意されます。その新しい王は、「その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11:2)ような人物でなければならず、神を全面的に王とする者で、神に全面的に従う忠実なものでなければならなかったのです。そのような人物として神が新しく選ばれたのがダビデでありました。

この神の計画と御心をまだ知らないサムエルは、「サウルのことを嘆く」(10:35)日々を過ごしていました。嘆きの中にいるサムエルに対して、「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」(1節)という主の言葉が臨みました。

主はこの言葉を告げることによって、廃位された王もろとも王国を廃棄してしまうのではなく、その存続のために必要な措置をとるという意思を示されました。それが油注ぎによって行われるということは、この役目には主の召命が決定的意味を持つことが示されています。この点に関していうならば、サウルもダビデも、全面的に、神の恩恵によって選ばれた王でありました。

さて、新しい王として油注がれるべき人物は、エッサイの子であることが明らかにされています。エッサイはイスラエルの12部族の中でも小さいユダ族に属する人物ではありますが、ルツ記によりますと姑ナオミの神に委ねて自らの生涯をかけようとしたモアブの女ルツ(ルツ1:16)が、ナオミ親類のボアズにより産んだオベドの子です(ルツ4:22)。神はサウルの時と同じようにまたこのような小さなものを顧み、その民の王をそのような家から出そうとされます。しかし、エッサイの子のまだ誰とも明らかにされていません。

サムエルは、主の御旨を告げられて、恐れに包まれました。もしサムエルがベツレヘムに向かっているということをサウルが知れば、彼の猜疑心を引き起こし、殺されることになるかも知れないとサムエルは恐れました。サウルは主のさばきを告げた人物サムエルの動向を恐れ監視していたのかもしれません。ラマからベツレヘムに行くためには、サウルの町ギブアを経由しなければなりませんので、サウルに気づかれないでそこへ向かうことは不可能であったからです。

主は恐れるサムエルに対して、ベツレヘムで犠牲祭儀を行うように命じ、サムエルの行動が正当なものとなるよう配慮されました。祭儀がサウル王の目をごまかすために用いられたのではなく、サムエルはベツレヘムでもそれは行わねばならなかったのです。しかし、ベツレヘムで犠牲のための動物を調達するのではなく、予め調達して犠牲をささげるためであるという正当性を王に一目で見とめさせるための主の配慮です。

サムエルはこうしてベツレヘムに無事到着します。なすべきことをその時告げるという主の言葉を信じ、新しい王への油注ぎのためにサムエルはベツレヘムにやってきました。しかし、町の長老たちは歓迎してサムエルを迎えませんでした。長老たちはサムエルとサウルの不和について知っていたため、いざこざに巻き込まれるのを恐れていたからです。「平和のことのためでしょうか」という彼らの言葉が、その不安を表しています。サムエルは、その訪問が彼らに対する牧会的な目的のためであることを告げ、安心させます。しかし、長老たちがサムエルの行う犠牲祭儀に実際参加したかどうかはテキストからは判りません。

サムエルはエッサイの息子たちをいけにえの会食に招き、油注ぐべき者が誰であるかを探そうとします。サムエルが来た目的は、誰にも告げられず、隠されたまま、サムエルは主によって選ばれた者に油注ぎを実行しようとしました。しかし、サムエルもそれが誰であるか知らないのです。

サムエルはエリアブに目を留め、容姿の美しい彼こそ油注ぎを受けるべき人物であると確信しますが、主の答えは異なっていました。

「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(7節)という主の言葉を、サムエルは聞きました。ここに王を選ばれる主の規準が示されました。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」この規準によってエリアブは退けられました。そして、アビナダブもシャンマも、エッサイの七人の息子が次々の呼ばれましたが、何れの人物も主に選ばれた人物ではありませんでした。

主なる神は既に一人の人物に目を留め、その人物に油注ぎを行おうとされていました。しかし、いけにえの会食に呼ばれたエッサイの七人の息子たちには該当者はいなかったのです。

神の選びの規準は、人の目とは異なります。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(Ⅰコリント1:27-28)という規準こそ、神の選びの規準です。神は世で弱い者を選ばれるのです。

祭儀資格の年齢に達しない末っ子のダビデは羊飼いの仕事を命じられ、その席には呼ばれなかったのですが、エッサイは「あなたの息子はこれだけか」というサムエルの言葉を聞き、忘れていたのを思い出したかのように、末息子のダビデの名を告げました。こうしてダビデが呼ばれ、ダビデに油注ぎがなされます。

ダビデは、「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」(12節)といわれています。主は「人間が見るようには見ない」(7節)という基準を示されたのに、12節の御言葉が記しているダビデ像は、「人間が見る」基準と何ら異ならないように思えます。ダビデは人の目にもふさわしい素質を備えていたということが示されているのでしょう。しかし、何より重要なのは、ダビデが「心によって見る」主の規準に最も合致する人物であったということです。サムエルの判断によってではなく、主の判断に基づき、主の命令によってサムエルはダビデに油注ぎを行ったということです。

この油注ぎにおいて注目すべき点は、神がイニシアチブをとり、神によってダビデが選ばれたということです。徹頭徹尾神が主権者として、ダビデの油注ぎを行われたということです。

ダビデに油が注がれると、「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」(13節)といわれています。「その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11:2)人物こそ、主に選ばれたまことの王です。ダビデはそのような王として登場したことをサムエル記は告げています。ダビデこそ、主が共におられる王です。

そして、サムエル記の記者は、14節において話をサウル王に戻し、彼とダビデの関わりを告げるべく展開しています。「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」(13節)という言葉と対照するように、14節は、「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」と告げています。旧約聖書においても新約聖書においても、「神の人」たちの物語は、神の霊の物語として語られます。油注ぎを受ける者に神の霊が注がれ、まことの王にふさわしく就任したことを告げると共に、「主の霊が離れる」ことは、廃位によってもたらされたことを告げています。サウルは、この後何年かはイスラエルの王としてあり続けますが、王にふさわしい霊の導きを欠く正当性を持たない王でしかないことを、14節は告げています。

サウルに主の霊の統御がなくなっただけでなく、「悪霊」が彼の心をかき乱し悩ますことになった事実が同時に報告されています。ここで注目すべきは、「悪しき霊」もやはり「主から来る」といわれている点です。サウル王の精神的な錯乱と異常行動は、精神病理学的なものでも心理学的なものでもなく、神との関係において原因があり、神の裁きによる苦しみとしてあるという事実が、これによって示されています。神は何という過酷で無慈悲か、そう考えてはなりません。「悪霊」の究極の原因を神に見るなら、悔い改め、癒される道、その希望に光がその彼方に見出せることが同時に示されています。「悪霊」もまた神の道具でしかなく、神に従属するものであるからです。

サウルのこの変化を、宮廷の仕え人も、その原因を「神からの悪霊でしょう」と正確に捉えています。そして、美しい音楽こそその心を和ませると王に助言し、「竪琴の名手」を連れてきて、王を慰めようとします。こうして王の下に連れて来られたのがダビデです。こうして主の導きにより二人は運命的な出会いを経験します。ダビデの人柄、その奏でる竪琴の音の美しさは、直ちにサウル王の心を捉えました。ダビデは王が発作の陥った時、琴を奏でて王の心を慰め、助けました。ダビデが琴を奏でるとサウルの心が安らぎ、悪霊が彼のもとから離れる、この事実は、主がダビデと共におり、王の心だけでなく、王国の心を慰める人物としてあることが示されています。

この新旧の交代する王の出会いが、奇しき主のご支配の下に実現し、その将来を互いが知らないところで、しかし、神のよって実現しつつあります。神は人の思いを超えたところで、しかし、現実の歴史の中で、その救いを実現される方です。神の選びと召しの中で、わたしたちの生涯も、救いも与えられ、高き者を低くし、弱く貧しい者を顧みる神の救いが明らかにされて行きます。

エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。(ミカ書5:1)

この預言の成就を新約聖書は、ダビデの子孫として産まれた主イエスにおいて見ています(マタイ2:6)。神に信頼する者に平安と命が約束されています。

旧約聖書講解