ヨナ書講解

2.ヨナ書2章『魚によるヨナの救い』

ヨナは、ニネベに行って主の審きを告げよとの命令に聞き従わず、タルシシュ行きの船に乗り、主の命令に反したゆえに、彼の乗った船は難破しそうになり、その危機から逃れるためにヨナは自ら提案して、海に投げ込まれることになり、船は危機から救われます。ヨナの意思に反して船に乗っている多くの異邦人は、ヨナを通してあらわされる主の力と支配を知り、悔い改めて主を畏れる者となり、主を礼拝する者となりました。人の思いを超えて支配する神の恵みの大きさを思い知らされる出来事が1章に記されています。しかし、神の選びの民の中でも神の言葉を取り次ぐべき預言者が神の意思に反して、神の罰を受けて海に投ぜられる苦しみが同時に明らかにされました。

そのヨナはどうなったか、2章はそのことを簡潔に伝えています。本来、2章は、1節と11節だけであったという注解者の意見も存在します。物語の中心に流れていることは、神の憐れみはユダヤ人に限られたものではなく、広く世界に示され、悔い改める異邦人にも表されるということでありますから、ヨナの信仰を語る3-10節の感謝の詩は、この物語の流れからするとなくてもよいように思われます。むしろその方が、この物語の主題がより明確となるかもしれません。しかし、今日このかたちで2章に感謝のいのりの詩が収められていることもまた意義のあることであります。但し、この感謝の詩は、主の救いを経験した者がその苦難を振り返り、その原因と苦しみをもう一度省察し、救いに現された神の憐れみと慈しみの御手の偉大さを感謝したたえているのでありますから、11節の前よりも後に置かれる方が収まりのよいようにも思われます。

さて、1節は海に投げ込まれたその後のヨナの消息を語っている言葉であります。この言葉が報じていることは、「主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませ」て救われたという主の恵みと憐れみによる救いの事実であります。御言葉に背いて罪を犯した預言者は神の審判により海に投げ込まれることになったが、神は預言者を救うために、「巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませ」、三日の後再び陸地に吐き出させるという不思議な方法によって救われました(11節)。この巨大な魚が何であったかという議論を長々とすることは愚かなことです。この物語を理解する大切なポイントは、その巨大な魚が主の命令に基づいてヨナを呑み込んだという事実であります。「巨大な魚」は神の計画を遂行する道具として用いられているに過ぎません。この物語の中心にある主題は、どこまでも神の驚くべき全能の働きによる救いにあります。1節の短い言葉が語り伝える重大な事実は、神がいかにして審きを通して預言者を救い、また彼に、彼が逃れようとした使命を達成させるために配慮され続けているかということにあります。

11節には、再び主の命令によって「魚はヨナを陸地に吐き出した」と報告されています。ヨナはこうして再び、自分が逃れようとした元の来た道に連れ戻されています。しかし、2章が告げるところによると、ヨナは未だ自分の救われたことに喜び、神の計画の下にある自分の存在について十分気づいていません。2節は、3-10節の感謝の祈りの導入句であり、これを「巨大な魚」の腹の中に「三日三晩」いた時の祈りとする編集者の意図によって、このような言葉をもっておかれています。しかし、前述の通り、この感謝の祈りは、既に救いを体験した者の祈りとなっていますから、本来、11節の後におくべきものであるでしょう。編集者の意図としては、ヨナの悔い改めと祈りを主が聞き届けて、ヨナが救われたということを伝えようとしたのかもしれませんが、1節と11節が囲み込んでいる言葉は、主の恵みが先行し支配しているので、ヨナの救いはヨナの悔い改めや祈りよりも主の恵みによるという事実が強調されています。

しかし、この編集者の意図も実際の信仰の祈りとして無視されてはなりません。事実、2節に明らかにされているように、ヨナは苦難の中で主を呼び求めたはずであるからであります。そして、助け出された時、その祈りが聞かれたと受け止め、主への感謝を捧げているのであります。わたしたちの信仰の受け止め方としては、この態度は必要であるし重要であります。しかし、より重要なのは、救われた後でこの恵みを感謝し、いつまでも覚えて神を礼拝するものとなることであります。ヨナは救われて感謝の犠牲を捧げる前に、この言葉を述べているのであります。

4節の言葉は、有名な詩編42編8節の「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。」という言葉を彷彿させます。罪を犯した者は、神を礼拝する場所に同胞の主にある民と共にまかり出て神を礼拝することが赦されなませんでした。主の審きの下に置かれる苦しみは、神を礼拝することのできない飢え渇きとして詩編42篇は歌っていますが、ヨナのこの時の心境もこれと同じところにあったことを、4節の言葉が示しています。

3節の感謝の言葉は、克服された苦難とヤーウェがその叫びを聞き入れ救ってくださったことの感謝の回想からなっています。これらの言葉は、苦難は神の救いの光で見られるべきことを示しています。ここで祈るヨナは、神の前に心をすべて注ぎ出しています。祈りは神と共にあることによって活きたものとなり、神と共にあることによって育ちます。苦難は、この祈る者に死をもたらしそうになりました。ヨナは「地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」(7節)と感じるほど無力で死の状態を味わいました。しかし、この苦難の大きさこそ、ヨナを神の救いの御業の大きさを認識する正しい光の下に導いたのであります。

ヨナは4節において、詩編42篇8節と同じ信仰に立っています。その信仰とは、現在の苦難は自分の背きの罪が原因であるにしても、その苦難に合わせているのは、ほかならぬ神ご自身であるということを認識しています。「あなたは、わたしを深い海になげ込まれた。」このヨナの言葉は、神を逆恨みした言葉ではありません。事柄を神の救いの御業の光の中で捉えようとしている言葉であります。ヨナに苦難を経験させたのは神であると認識できるなら、自分の苦難は信仰に繋がる苦難と認識することができます。そこで初めて苦難は信仰の深さと意義を持つことになるのであります。苦難を苦難としか見られない信仰は、希望を見出すことはできません。しかし、その苦難の究極の原因として神を見ることのできる信仰は、苦難の深い意義を認め、耐え忍ぶ力と希望を見出すことができるのであります。

神を信じる者の最も辛い体験は、神から追放され、礼拝を守れないことであります。だから、苦難の中にある者はその苦難を持って神を離れるどころか、むしろ神をあこがれ、神殿において神を身近に覚えることのできた礼拝の時を回想するのであります。彼の最も深い嘆きは、愛する民と共に神を礼拝できないことであります。その道を閉ざされていることであります。ここでもこの感謝の詩は、詩編42篇と類似した信仰を示しています。

ヨナは7節前半で、「地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」ほどの陰府の力に圧倒され、無力さと死を自覚したことを告白しています。彼はこの危機を自覚させられ、生と死を支配したもう神へ感謝する喜びを知ったのであります。ヨナは最後の最後まで神により縋り、その祈りを絶やしません。そして、そのようなヨナの祈りを聞き給うた神にヨナは感謝を犠牲の礼拝を持って表し、「救いは、主にこそある」(10節)と告白し、この感謝の詩は終わっているのであります。

この感謝の詩は、ヨナの救いに対する願いの祈りが聞かれた結果として、主の命令が発せられて、ヨナが救われたことを告げようとする編集者の意図が示されています。神を信じる信仰の祈りとしてその理解もまた赦されます。しかし、ヨナの行為は主の命令に反するものであり、これに反するヨナを裁くことによって彼に悔い改めを求めたのは主なる神でありました。ヨナはその審きの厳しさを知って、悔い改めの信仰へと目覚めさせられたのであります。彼は三日三晩神の命令によって呑み込まれた巨大な魚の腹の中で過ごす中で、悔い改めの信仰へと導かれたのであります。神はその祈りに応えたかのように彼を救われましたが、事柄を支配し彼の祈りを導かれたのも神にほかなりません。ヨナ自身は編集者の意図を越えて、この祈りを神への感謝として祈ったに違いありません。

こうしてヨナは、元来た道に戻されているのであります。ヨナを取り戻したのは神であり、この事柄を支配し、彼の信仰をこのように回復したのも神であることを覚えることが大切であります。神は苦難の中で生きることの意味を私たちに教え、その中で感謝して祈り、礼拝する者へと導かれる恵みの神であることをこの物語を通して教えられます。そのことを知ることが何よりも大切であります。

旧約聖書講解