詩編講解

73.詩編147篇『主は打ち砕かれた心を癒される』

この詩篇は三つの部分から成っています。それぞれ初めに神を褒め称えよと要請する言葉で始められています。この詩篇の思想はきちんと整理されていませんが、二つの主題をめぐって展開され、繰り返しそこに戻ってきます。二つの主題とは、神の力と憐れみに富む恩恵であります。そして、この二つの主題は、創造と選びの中に示されているのであります。この二つの主題こそ、実に旧約聖書の礼拝伝承の核となる基本主題でありました。

創造と摂理に表される神の力と恵み、そして、イスラエルの選びにおいて示される憐れみに富む恩恵こそ、礼拝する者が心から賛美しなければならない理由として要請されているのであります。礼拝する者は、賛美において神の力と恵みをさらに深く覚えることができる、そこに選びの民の真の信仰の姿がありました。

2節と13節のエルサレムの再建とイスラエルから追放された者の招集が、捕囚からの解放をさすのか、ネヘミヤの城壁建築と解すべきかについて、確実なことはこの詩の内容からは言うことはできません。だからこの詩の正確な年代を決定することは不可能であります。

この詩の第一部は1-6節です。この部分は慰めの性格を持ち、明らかに一つの困難な状況を前提しています。詩人は、「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか」(1節)と歌い、その賛美を始めています。なぜ神は賛美されるべきか、その理由を、主がエルサレムを再建し、追いやられた人々を集め、打ち砕かれた心の人々を癒し、貧しい人々を励まし、主に逆らう者を打ち倒される、ことを挙げています。

この主への賛美の背後には、神の審きへの待望があります。神が審きにおいて義を貫かれることへの待望があります。神の審きには、神に真実な者には助けと救いがある。しかし、神なき者には終りがあることが意味されているのであります。この審きを期待する信仰は、捕囚の苦しみを体験した民が異国で見た星の輝きを、エルサレムで見た星の輝きと違わないことを思い、その星々を造られた主が全世界の創造者であり、この創造の神こそ力と英知に満ちた業と配慮によって御自分の民を覚え、救いへと導かれるのだという、神の憐れみに対する信頼を基礎付けているのであります。

星をその名で呼出して出現させられるお方は、また御自分の民をそのように覚え、あらゆる障害を乗り越えて恵みを持って助けようとの御心を実現するのに十分な力と知恵を持っておられる、というゆるぎない信仰が告白されているのであります。

広大な宇宙にちりばめられた星を、その名を持って呼び出し出現される神は、今や打ち砕かれた人々の心を癒し、その傷を包み込み、抱きかかえて、救われるというのであります。貧しい虐げられる一人一人を覚えて、その名を呼ばれる神を賛美する喜びを詩人は先ずこのように歌っているのであります。

そして、7-11節の第二部において、主なる神への感謝が歌われています。それは、豊穣を約束する主の祝福への感謝の形をとっていますが、感謝の本当のねらいは人間的な利己的な考えにあるのではなく、神の深い配慮と愛に眼差しを向けることにあります。主なる神は野の獣や烏にさえ食べ物を与え配慮を与えられる。そして、この詩人は、主は人間の外的な能力や器用さや力を喜ばれず、心から主を畏れ、主の慈しみを待ち望む人を喜び給う神であられることをたたえているのであります。それが10,11節のように歌われています。

この詩人は、神が本当に喜ばれる者を知っていました。そこに間違った神への期待を抱くことなく、自然世界に現されるまことに小さな神の恵みの配慮にも、繊細な心で喜びを感じる感受性を豊かに育む秘密がありました。

馬の多さや足の早い壮健さを誇ろうとするのは、愚かな利己心からでた思いであります。この詩人の目には、主の慈しみを期待し主を畏れる信仰から遠ざかる「主に逆らう者」の愚に対する鋭い批判の目があります。しかし、その批判は他人に向けられるのではなく、自らのあり方を考えていこうとするところに、この詩の本当の価値があります。

そして、第三部の12-20節は、主の町エルサレムへと向けられています。エルサレムに主を賛美することが求められるのは、神の恵み守り平和がその中に住む者に向けられているからであります。主の恵みの選びに目を向けることこそ、エルサレムが主なる神を賛美しなければならない最大の理由であります。エルサレムは神を真に崇めようとする者を救おうとされる神の言葉と意思が表される場所でもありました。だから、ここでは、選びと同時に神の言葉と意思に聞く民としてのあり方が同時に求められる場所であることが明らかにされているのであります。

主の言葉は15-18節において賛美の対象とされています。しかし、この主の言葉こそ根本において創造の力を意味するものとして賛美の対象とされているのであります。神の言葉こそ自然と歴史を造るものにほかならないからであります。

主は、選びの民に御言葉を与え、掟と審きを告げられます。そして、この民は、主なる神の審きと救いの歴史において特別な価値と意義を担っているのであります。

イスラエルは神の選びに与かることによって、神の前に、より高い義務と責任を負わされることを意味付けられていたのであります。

預言者アモスはアモス書3章2節において、イスラエルの審きの根拠をそこにおいて告げているのであります。主は多く与えられている者からは、多く要求されるのであります。それを重荷と見るか恵みと見るか、そのこと自体が信仰の問題として問われているのであります。しかし、主の御心は裁くことにあるのではないのです。恵みに与からせようとして、御言葉を降り注いでくださっている、その恵みそのものに目を向けて生きることを私たちに求めておられるのであります。
このように恵み深くある神に感謝、ハレルヤであります。

旧約聖書講解