詩編講解

65.詩編131篇『母の胸にいる幼子のように』

詩編131篇は、実に神への信頼に満ちた素朴で美しい詩であります。この信頼の詩、澄んだ敬虔に満ちた、素晴らしく繊細で親しみ深い、この小さな歌は、詩篇の中でも最も美しいものの一つに数えられてもよい、といわれています。謙遜な信頼の優雅な調べは、

沈み行く夕映えの美しい太陽は
谷間をゆらゆらと流れる水面を照らし
きらきらと輝き
疲れた心を癒してくれる(ヴァイザー)

そのように、この詩編は人生の嵐に耐えた人間が神に信頼して生きる事の素晴らしさを発見して真の憩いを見出したときの慰め喜びを歌い、あらゆる人にその喜びに生きるよう誘ってくれる詩篇であります。

1節の詩人の言葉は、うまくいかなかった人生をあきらめた者の言葉ではありません。この祈り手は、子供らしく開け広げて神の眼差しに対して心を開いているのであります。

彼の人生を振り返れば、願ったことの成功も失敗も多くあったことでしょう。しかし、彼にとっては、人生においてどれほど多くの願いや計画が成就したか、しなかったかが重要な意味を持つのではありません。多くの人生の嵐を経て、神への信頼に生きることこそが重要であることを彼は知ったのであります。

人はどんなに多くのことを為し得たとしても、それは神の前ではまことに小さな事であり、しかも己が命を一日でも自分の力で延ばすことのできない存在でしかありません。それは、自分の力の及ばぬ「神の意志に委ねられた領分である」と彼は見ているのであります。

それゆえ、「わたしは魂を沈黙させます」(2節)と彼は言います。人生について、自己について、多くを語ること、多くの願いや夢を持つことが重要なのではない。自分の祈りを神が満たしてくれたか、くれなかったかを斟酌することが重要なのでもない。彼が多くの内的な戦い、苦悩を通して学んだもっとも大切なことは、自分がどのように変わろうとも、神は少しも変わらない方であるということであります。

神が変わらないということは、神の恵みと愛に満ちた心が変わらないということであります。

ですから、本当の幸い、失われることのない平安は、この変わらざる神ご自身を求めることにあるということであります。求める、といいましたが、神は手を伸ばさなければならないほど遠くいますのではない、ということを彼は知っているのであります。

神の方から伸ばされた腕、差し出された胸に飛び込み、「母の胸にいる幼子のように」その懐で憩う、いつまでも神の中で生きる、そこにこそ真の喜びしあわせがあると詩人は歌っているのであります。

彼にとって大切なことは、人生の目的を自分の中で見出すのではなく、神の中にある自分に、本当の生きる姿を見出していくことであります。

彼はこの大きな発見の喜びを一人占めし、余生を楽しむことにかける偏狭な精神の持ち主ではありません。3節のように、同胞の共に向かって呼びかけているのであります。

神の中にある自分を喜ぶことこそ、平安な日々を過ごす力の源であることを、共に礼拝を守っている皆に呼びかけたいのであります。

神を礼拝し、神中心に生きる平安と喜びは、この老詩人の姿からにじみ出ているのをわたしたちが見、わたしたちもまた、その信仰に倣う者となりたく思います。

旧約聖書講解