サムエル記講解

14.サムエル記上13章1-23節『ペリシテ人との戦い』

サムエル記上13-15章には、イスラエルの王となったサウルの戦いの記事がまとめられていますが、その間に、伝統的な宗教的理念を代表するサムエルと王制という新しい制度を体現するサウルとの間に存在する葛藤と対立とが描かれています。イスラエルに王が要請されたそもそもの理由は、宿敵ペリシテとの戦いに勝利するためでありました。それゆえ、イスラエルの最初の王となったサウルの使命は、ペリシテ人との戦いにありました。彼はそのために王に選ばれ、彼の人生の栄光ある勝利も、またその終わりも、その戦いに関連して存在しました。しかし、彼の王としての歩みは、イスラエルの王制の歴史を先取りするように、その栄光と挫折は、内部から突き動かす宗教的・信仰的問題と深く関わっていました。本章には、その発端となる象徴的出来事が記されています。

1節の記述は、列王記などに慣例的に見られる申命記史家による注記です。新共同訳聖書は推読によって、サウルがまず一部族の王(多分ベニヤミン族)となり、その後一年でイスラエル全体の王となった、というニュアンスの翻訳を行っていますが、この部分はテキストの保存状態が悪く、ヘブライ語原文を素直に読めば、「サウルは…歳で王となり、二年間イスラエルを治めた。」となります。つまり、ヘブライ語原文にはサウルが即位した時の年齢を示す数字が欠けています。その理由はわかりません。サウルが油注がれた時は未だ父の家にいる若い青年だったはずなのに(9-10章)、ここではヨナタンという立派な戦士の息子がいることになっています。あるギリシャ語訳の写本には「三十歳」という数字が入れられています。推測によるものであると思われますが、歴史的には真実に近いものと見てよいと思われます。サウルの王としての統治期間が2年というのは、この後の記述を見ますとあまりにも短すぎるように思います。実際の統治はもっと長かったと思いますが、彼に対するサムエルの言葉から来る神学的な見地から、彼が王として在任できる期間は僅かでしかあり得ないという結論が導き出され、このような数字が書かれることになったものと思われます。使徒言行録13章21節はサウルの統治期間を40年としています。

2節以下にサウル王権の軍事支配の側面が記されています。戦いのたびに召集される軍隊ではなく、常備軍の始まりがここに見ることができます。しかし、その兵の数も軍事力も、ペリシテ軍優位(5節以下)はあまりにも明白でありました。それでもサウルは、ベニヤミンのギブアの北側からベテルに至る地域に部隊を配備し、サウルの息子ヨナタンは小さい部隊の司令官として重要な役割を担いました。そして、ペリシテとの戦争のきっかけを作ったのは他ならぬこのヨナタンでした(3節)。しかし、その行為はサウルのものとして描かれています(4節)。「ペリシテ人の守備隊を打った」(3節)イスラエルの軍事的勝利はごく限られた地域でなされたものにすぎませんが、サウルはこれを自分の行為として、全イスラエルにペリシテとの戦いに立ち上がるように呼びかけ、民はギルガルのサウルのもとに呼び集められます。

一方、ペリシテ人は、イスラエルを武装解除させて、奴隷のように取り扱っていましたから、この事態を奴隷たち(イスラエル)による反乱とみなしましたが、この反乱の試みが愚かで無力なことを知らしめるため、その圧倒的優位な軍事力を見せ付けようと集結し、軍は配備されました。5節に記された数に誇張はあるにしても、ペリシテの軍事的優位は誰の目にも明らかであり、イスラエルが恐れをなすほどのものでありました。これに恐れをなしたイスラエルの兵と民の大多数の者は、その攻撃の危険を感じ、まぬかれるために、ヨルダン川に近いところにある洞窟や、岩陰などに逃げ出す始末です。それでもサウルはギルガルまで撤退したとはいえ、そこの踏みとどまり、ペリシテの攻撃に備えようと、勇敢な姿勢を示しました。しかしサウル王のもとに留まったのは、常備軍3000人(2節)のうち、僅か600人でした(16節)。その数にはヨナタンの部隊が含まれていたと思われます。

それでもサウルは、「七日間待て」(10章8節)というサムエルの命令に従って忠実に待っていました。サウルの王としての行動を、ここに報じられている面から見る限り、勇敢であり、責任感も強く、サムエルの命令にも忠実に従っていたことを知ることができます。彼は少なくとも、外面的には敬虔な信仰を持つ王として、振る舞い、申し分のない行動を取っていました。

しかし、約束の七日間が過ぎ、次々と離脱して行く兵士たちの姿を見て、サウルの心は動揺し、焦りました。彼は戦いに際し主に嘆願する犠牲が未だであることに気づき、献身を表す和解のささげものを捧げました。そして、そのささげものを捧げ終わったちょうどその時に、サムエルが到着し、サムエルはサウルがした行為に対し、「あなたは何をしたのか」と厳しく問いただしました。

このサムエルのサウルに対する態度は厳しすぎるという印象を受けます。サウルは7日待てという命令に反したわけでないのです。七日待ってもその日までに来なかったのは、サムエルの方です。そうであるのに、その約束の日に遅れた当の本人、サムエルから「あなたは何をしたのか」と詰問を受けるのは理屈に合わない気がします。サウルの述べている理由も敬虔な王に相応しいものであり、イスラエルを思う危機意識から出た行動です。それなのに、サムエルはサウルに向かって、「あなたは愚かなことをした」と非難し、サウルの行為は戒めを破る行為であるといわれています。

ではどの点で主の戒めをサウルは破っていたのでしょうか。 祭司アザルヤは、ウジヤ王に向かって、「あなたは主に香をたくことができない。香をたくのは聖別されたアロンの子孫、祭司である。この聖所から出て行きなさい。あなたは主に背いたのだ。主なる神からそのような栄誉を受ける資格はあなたにはない。」(歴代下26:18)と祭司の権能を侵して、勝手に祭壇に香を炊いたウジヤ王の行為を避難していますが、サウルの時代は未だこのような王権と祭司権能が完全に分離区別されていたわけでありませんから、この点からの批判ではなさそうです。

サウルがここで非難されているのは、別の理由です。サムエルを通して表される「主の御心」を求めなかったこと、これが彼の罪となりました。七日待ってサムエルが表れないとしても、彼を通して与えられる主の言葉による祝福を待たねばならなかったのです。彼にはその日が来るのを忍耐して待つ信仰が欠如していました。もっぱら脅威を与える情況にばかり心を奪われ、民の離反を自分が行う宗教儀式でつなぎとめようとする間違った祭儀利用に走りました。御言葉に聞くことは、焼き尽くす犠牲に勝る(15:22)ということを、サウルはこの時も、この後も忘れていたのです。サウルは宗教儀式を大切にするという意味では敬虔な王でした。しかし、主の御言葉に聞き、徹底してひれ伏して従う信仰が欠如していました。

サムエルは、「主は御心に適う人を求めて」(14節)いくべきことをサウル王に告げました。この場合、主の御心とは、神の人サムエルを通して示されます。サムエル(預言者)の説教を通して示される御心に聞き従うことを大切にしなければならなかったのです。イスラエルに求められたこの信仰の基本を欠いていては、儀式を守る敬虔さがいくらあっても、それらの宗教的行為はまったく虚しいものです。イスラエルの王たる者は、どんな時でも神を見つめ、神の言葉に忠実に生きることを、民に先だって示して行く者であることが求められていたのです。神の言葉こそが、この国で最高の玉座を占めるべきであったのです。

「しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」とサムエルはサウル王に向かって告げています。これは、サウル王が直ちに廃位されるということがいわれているのではありません。サウルの王権がその力を発揮することができず、存続することができないということが言われているのであります。そして、主の目は既に次の人物に注がれています。その人物とはダビデです。とはいえ、サウルはなお、王であり続けます。しかし、サムエルとサウルの決別を告げるこの出来事は、15章の出来事と共に決定的な意味を持ちます。主に油注がれ、くじによって選ばれて王となったサウルは、主の道具として、主に聞き従う限り、祝福を得ることができました。しかし、主によって選ばれたこの王は、結局主によって破滅させられます(御言葉に聞き従わなかったために!)。

この裁きの言葉を聞いて、サウルは残った兵の数を数えます。その数は6百名と記されています。5節に記されているペリシテ軍の数に誇張があるにしてもあまりにも差があります。ペリシテ軍は周辺の軍事的支配を確保するために、遊撃隊を三隊に分けて自由に行き来させることができました。

イスラエルはその兵の数が少ないだけでありません。19節以下には、ペリシテ人よって徹底して武装解除させられたイスラエルの現実が記されています。イスラエルにはどこにも鍛冶屋がなく、剣や槍を造ることができませんでした。農機具を研いでもらうために、ペリシテ人のところにいくしかなかったのです。まともな武器をもっているのは、王のサウルと息子のヨナタンだけです。このように戦う条件の整っていないイスラエルがどうして存続できるでしょうか。人間の目では、それは困難であるということになります。その事実をサムエルは記します。しかし、士師記7-8章には、僅か300人の精鋭でミディアン人との戦いに勝利したとの報告が記されています。神が勝利に導かれるのに数の多さは問題でありません。数は少なくても、神は信仰ある者と共にあり、御心に従う者に勝利をもたらせます。次章に、ヨナタンにおいてそのことが明らかにされます。

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