サムエル記講解

10.サムエル記上9章1節-10章16節『サウルへの油注ぎ』

この箇所はサウルがサムエルによって油注がれ王となる物語が記されています。サウルは父キシュから命じられて、姿を消したロバを捜しに出かけに行って、サムエルと出会い、王となるまでのこの物語は、実にほのぼのとした人間味あふれており、読んでいて実に楽しいです。

1-2節に王となる人物サウルが紹介され、家系の由緒正しさの点でも、美しさや体格の立派さにおいても、いかに王となるにふさわしい資質を備えていたかが紹介されています。しかし、容姿の立派さが王となるにふさわしい要件と見る見方は、人間の目であり、主は、それとは異なる見方を、16章7節に次のように示しておられます。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

ともあれサウルは父の言いつけに従い、若者を一人連れてロバ捜しに出かけますが、方々捜しまわりますがなかなか見つかりません。サウルはあまりにも長く遠く家を離れてロバ捜しに没頭し、とうとうツフまで出かけてしまいます。それでもロバが見つからないので、ついにロバ捜し断念を決意します。それで、その帰りが遅いと思って父キシュ心配させないよう帰ろうと、サウルは付き従った若者に言いました。

ところが若者は「この町に神の人」がおり、「その方の仰ることは、何でもそのとおりになる」のでその方を訪ねて行きましょうとサウルに告げ、一転して「神の人」捜しが開始されることになります。サウルたちは、神の人の町へ向かう途中水汲みに出てきた娘たちと出会い、娘たちに「先見者」と呼ばれていた預言者のいる場所をついに聞き出すことに成功し、サムエルのいる町にたどり着きます。

こうして二人は出会うことになるのですが、サウルはこの時点でその先見者がサムエルであることを知りません。サムエルも自分が油注ぐことになるイスラエルの最初の王となる人物が誰であるか知りません。

しかし、サウルが来る前日に、主はサムエルに、「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」(9章16節)と告げておられました。

サムエルに告げられた主の言葉は実に驚くべき内容が含まれていました。サムエルによって油注がれ、「イスラエルの指導者」となる人物は、「ベニヤミンの地」から出るものであることが明かにされているからです。しかもサウルはベニヤミンのギブアの出です。ベニヤミンのギブアは、士師記19-21章によれば恥ずべき蛮行の町でありました。「イスラエルよ、ギブアの日々以来/お前は罪を犯し続けている。罪にとどまり、背く者らに/ギブアで戦いが襲いかからないだろうか。」とホセア書10章9節に、ギブアの蛮行が深く記憶にとどめられています。しかし、そのギブアから出たサウルが油注がれ王とされ、全イスラエルはサウルによって失われることなく守られるであろうことが語られています(9:20)。イスラエルは彼が支配することにより、ペリシテの手から守られ安泰することが述べられています。サウルがベニヤミンのことを最小の部族といい、その中でも自分は最小の一族であると告白しているとおり、神はこの世界の中で最も弱いものを選び、へりくだった者に恩恵を与え、その失われた地位を回復させ、祝福する、恵みと慈しみに富んだ方であることが示されています。

サムエルは先見者であるといわれますが、イスラエルの王となる人物が誰であるか知りません。彼に「この男が」といってその人物を指し示すのは、神です。神はイスラエル最初の王の油注ぎによる任職を、サムエルという人物を通し実行されますが、王の権威と力は、神がその人物を指し示し、その任務の何たるかを明らかにされることによって、ただ神のもとから来ることが明かにされています。

しかし、サムエルは先見者として、いなくなったロバのいる場所を知り、また、未来の起こるべき出来事も見通し、その「しるし」を示し、特別な賜物が神から与えられていることを明らかにします。

ベニヤミンの地からやってくるのは「王(メレク)」ではなく、「指導者(ナーギード)」です。この語は「告知を受けた者」を意味し、「主に指名された者」として王をあらわしています。これに該当する人物は、「民の歓呼」を受けて、政治的権威が加わり、王(メレク)と名乗れるようになります。いずれにせよ、主の啓示があり、その指し示された人物が油注がれることにより、この新しい職位は始めて存在するようになります。そのことは裏を返せば、主の意思と召命なくしては、この職位は存在し得ないということです。王を求める民の声を主が聞き、認められるということが現実にはあっても、その要求によって本来の順序が転倒されてはならないのです。その声を通して神の意思が示されたのであって、その逆ではないことを、主の啓示やしるしによってその職務の由来が明らかにされます。

サムエルはイスラエルの最小の部族、最小の一族からでる人物を王に選び、その人物を、主賓として取り扱い、歓待します。それはまた、この王なる人物がなさねばならないことを示しています。彼は上に立って威張りちらすのではなく、僕として仕えるべきなのです。

10章にサムエルがサウルに油注ぐ場面が記されています。この油注ぎは、一つの礼典的な行為です。この礼典の執行者はサムエルです。しかし、サムエル自身が語っているとおり、サウルに油を注ぐのは主です(10章1節)。サムエルはいと高き神の代理人として、その委託において行為しているにすぎません。

サムエルは、サウルの王位が神から来たことを示すために、三つの「しるし」を明らかにします。第一のしるしは、「ラケルの墓の脇で二人の男に出会い」(10:2)彼らが語る言葉です。第二のしるしは、「ベテルに神を拝みに上る三人の男に出会い」、彼らが行うことです。第三のしるしは預言者の一団に出会い、それによって起こることです。

ここでサウルが神の霊の作用により、恍惚状態に陥り、「別人のように」変わるということがいわれています。サウル自身がそのようなしるしとなるということにおいて表されていることは、それによってサウルが、神の道具として召命を受け、いつでも神の力の介入を受け入れる用意のある存在になったということです。つまり、これ以降サウルは、神が彼と「共に」いるという確信をもって、神が彼のために準備してくれる様々な機会を捉えて行動することができ、またそのように行為しなければならないということが示されています。サムエルはこれらの「しるし」を示し、起こった出来事の真理性をサウルが確信できるようにしました。

特に、8節の「わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物をささげましょう。わたしが着くまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう。」という言葉は、サウルが徹頭徹尾、神の召命を受けた者として、神の指示を待ち受ける者であるかを問うテストでありました。しかし、彼はこのテストに失敗します。彼は7日間待ってもサムエルが現れず、兵士たちが自分のもとから離れ出したのを見て、危機感をつのらせ、祭司のつとめを自ら行ってしまいます。それゆえ、サムエルはこの命令に反したサウルに対し、「しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」(13:14)と告げねばならなかったのです。

しかし、「神はサウルの心を新たにされた」(10:9)のです。それは個人的回心のことではなく、サウルが今まで知らなかった、主の介入によりなされる業と言葉に対して開かれた態度がとれるようにされたのです。サウルは主の霊に捉えられた存在になったのです。御霊の支配するところには自由があります。サムエル記はこの事実を肯定的に報告しています。けれども、サウルは主の霊に委ねきり、そこから与えられる自由に生きず、自分の心に自由に生きようとして、主の前に重大な罪を犯し、その祝福を受けられなくし、その王位から退けられていきます。

神が心を新たにされた事実をどれだけ重く受け止めて行くか、そこにこれから生まれる王と王国の歴史がかかっていました。神の歴史に対する介入と、神の言葉による導きに対し、心を開いて、従う無垢な信仰こそ何より大切です。新約時代の使徒パウロは、かつてサウロという名を持っていました。復活のキリストはダマスコ途上でそのサウロに呼びかけ、彼の回心が起こります。パウロはこのダマスコでの体験を繰り返し証ししています。

しかし、このサウルは「サムエルの語った王位のことについては、叔父に話さなかった」という最後の言葉はパウロの態度と好対象を示しています。これがサウルの不信仰を示すものであったということを簡単にはいえませんが、27節で自分を侮った者に対しても沈黙を保ったサウルの態度から、主の心を第一としない後のサウルの姿が示されているかもしれません。

旧約聖書講解