士師記講解

20.士師記20章1-48節『審判』

ユダのベツレヘムから和解した側女を連れてエフライムの山地へ帰ろうとしていたレビ人は、カナン人の住むエブスよりも同じイスラエルの部族であるベニヤミンのギブアの方が安全だと思ってそこに宿を求めました。しかし、彼らを迎え入れてくれたのはベニヤミン人ではなく、彼と同じエフライム出身の老人でした。その夜、ギブアの町の邪な者たちが男色をしようと襲ってきたので、レビ人は側女を彼らに与えて身を守りましたが、朝になってみると側女は暴行を受け死んでいました。レビ人はその死体を持ちかえり、十二に切り分けてイスラエルの十二部族に送り、出エジプト以来このような忌まわしい出来事がイスラエルの中で起こったことがないと訴え、全イスラエルの意見を求めました。ベニヤミンのギブアでの出来事は、イスラエルにおける不一致と不信仰を物語っています。神によって選ばれ契約の交わりにある一員としての自覚と御言葉を中心とした交わりが失われていたことを示す、典型的な出来事でした。

レビ人の訴えは全イスラエルの知るところとなり、イスラエルは一致して立ち上がりベニヤミンのギブアにおける罪を取り除く戦いに参加するところとなりました。1節に記されている「ダンからベエル・シェバ」に到る地域は、イスラエルの北と南の端を示しています。つまり、この呼びかけに全イスラエルが応じたことを示しています。

しかし、この士師記の記述は実際のことよりも誇張されているようです。実際、士師の時代にこのようなイスラエルにおける理想的な一致と戦いがなされたのかについては、多くの疑問があります。とはいえ、ギブアの出来事とベニヤミンとの戦いについては確かな歴史的な核は存在していたと思われます。士師記の著者は、神学的な意義をこの戦いの記録から読み取り、強調しようとしたために、このような誇張が生じたのであると思われます。

レビ人の側女の不幸な出来事は、神との契約の交わりに生きないイスラエルに向けられた審判を表す象徴的出来事として信仰的には覚えられる必要があります。このレビ人にとってまことに大きな痛ましい犠牲でありますが、この事を通して、彼が全イスラエルに訴えたことは、11節に「こうしてイスラエルの者が皆、一人の人のように連帯を固めてその町に向かって集まった」、と記されているような団結と一致を生み出す結果となりました。起きたことは不幸であっても、そこから生み出された結果は喜ばしいものとなりました。イスラエルはこぞってベニヤミンのギブアに集まり、その恥ずべき罪を取り除こうと致しました。丁度、ヨシュアがアカンの罪を取り除いたように、イスラエルはこのおぞましい罪を取り除こうとして立ち上がったのです。
しかし、ベニヤミンは悔い改めの呼びかけに応えず、ギブアには左利きの石投げの達人が七百人いました。イスラエルは主に伺い、主の託宣によってユダが最初に戦うことになりました。ベニヤミンの部隊は強く、イスラエルは二度敗北を期してしまいました。彼らは、その度に主に伺い、犠牲を捧げ、断食をし、主に礼拝を捧げて、自らを整え直しました。

主の答えは三度目に、ベニヤミンを彼らに渡すということでした。新しく生まれたイスラエルにおける一致と主との交わりが、直ちにイスラエルに勝利をもたらすということにはなりませんでした。しかし、主は三度目に、彼らの祈りに応えて、勝利を与えられました。これは、彼らを高慢にさせず、忍耐し最後まで諦めずに一致して戦うことの大切さを教える主の訓練の方法です。
実際の戦いで勝利したのは、一致して戦いに臨んだイスラエルです。しかし、士師記の記者は35節で「主はイスラエルの目の前でベニヤミンを撃たれたので」と語ります。ですから、この勝利は主の勝利です。主がイスラエルの罪を審き、罪を取り除いて、失われた一致を回復なさるのです。罪のベニヤミンは徹底的に処罰されました。しかし、六百人が残されました。これは、主の憐れみによります。もし、主が憐れみを示されなかったとしたら、誰がその審きに耐ええましょうか。主の審判は滅ぼしてしまうことが目的ではありません。主は、失われているイスラエル12部族の交わりを再興するために、この裁きを行われているのです。

何故、あのベニヤミンがイスラエルに残ったのか、人間的には説明がつきません。人間の怒りに任せたならば、ベニヤミンは滅び去っていたでしょう。イスラエルは主のところに集まって、主の御心を伺い、ベニヤミンは残されることになります。主はイスラエルの罪の痛みをご自身が引き受け、イスラエルの中にある怒り憎しみを除いて和解させるお方です。

誠に、主は世と私共とにある罪の問題をこのようにして取り除かれるお方です。イエス・キリストの和解の福音は、まことにベニヤミンの罪よりも大きな罪を犯しているわたしたちの罪を取り除く、主ご自身の自己犠牲を通して与えられる恵みです。値なき者がただ恵みによって与る恵みです。その六百人の一人に数えられている恵みの大きさを覚え、改めて感謝するものでありたいと思うものであります。

旧約聖書講解