士師記講解

13.士師記13章1-25節『サムソンの誕生』

13章-16章には、サムソンの誕生から死に至るまでの物語が綴られています。ここに描かれるサムソンは、敵に対しては巨人のように強いが女性の前には子供のように弱い。その力は神からのもので、彼はナジル人に生まれたが、その行状は戒律破りに終始します。物語は、サムソンの英雄的死を通して民に救いがもたらされるという結末をもって締めくくられています。

13章は、サムソンの誕生について記しています。バラクの下でとギデオン下での救いのあと、イスラエルは主から離れ続けていました。それゆえ、再び神はご自分の民を敵の手に渡されました。裁き手として、東においてはアンモン人が用いられ、西においてはペリシテ人が用いられました。私たちは既にいかにして主が東にいる敵の手から救うのに、エフタを通して実現されたかを見てきました。西においてもまた、神は救助者を与えようと望まれました。

カナンの南西にあるツォルアという小さな町があります。この町はダン族に与えられていましたが、実際にはユダの領域に属していました。そこに、マノアと呼ばれる人が住んでいました。マノアとその妻には子供がいませんでした。これは彼らにとってと非常に大きな悲しみの原因であったに違いありません。彼らはしばしば子供が与えられるようにと祈ったことでしょう。主が彼らに祝福を与えられなかったとき、彼らには、主が彼らを見捨てていたかのように思わされたことでしょう。彼らには主がその不信仰の故に、イスラエルの全ての民を見捨てられたことを意味しているに違いないと思わされたことでしょう。

ある日、ひとりの人が非常にはっきりとした姿でマノアの妻のところにやって来て、彼女に主がひとりの子を与えるであろうと告げました。そして、彼は特別な子となるであろうと告げました。即ち、神の特別な奉仕のために聖別されたナジル人として、胎内にいる時から神に捧げられているというのです。彼は葡萄酒や強い酒を飲むことを許されず、それは、彼の強さが地から与えられるどのようなものからも与えられたのではなく、ただ主の霊から来ることをはっきりと見ることが出来るためでありました。彼はまたその髪を剃刀で切ることを許されませんでした。その巨大な髪の毛は、主によって聖別されたものとして強さが保たれていることの徴しであったからです。その母さえ、彼が生まれるまで、葡萄酒や強い酒を飲んだり、汚れたものをいっさい食べることを許されなかったのです。このように彼は主によって聖別されました。それは、彼がペリシテ人からイスラエルを救う最初のものとなるためでありました。

マノアはその御使いが妻のところにやって来たとき居ませんでした。マノアの妻はその人が「神の人」(預言者)であると思っていました。だが彼女は夫にその人の顔が神の使いの姿のようであったと言いました。マノアは夫としての地位の名誉にかけて、自分にもまたその「神の人」を送ってほしいと主に祈りました。そのように彼は、家長として、その子の躾の責任に十分与かることが出来ました。マノアとその妻は信仰によって神の言葉に生きました。主は彼らの状況に変化をもたらせられます。そして、イスラエルの状況に対してもそのようになさるでしょう。

主はマノアの祈りを聞かれました。神の御使いが女に再び現れたとき、彼女はマノアを呼びました。そして、マノアは同じ約束と同じ命令を受けとることができました。感謝に満ちた信仰において、マノアは主の御使いを食事に招きました。彼はこれを拒みましたが、しかし、マノアに焼き尽くす献げ物を主に捧げることが正しいことであることを教えました。正規には、それはシロにおける祭壇においてのみ許されました。しかし、主の言葉はこの場合、ツォルアにおいてそれを行うことが正しいことを宣言しています。これは少なくとも、自分の前にいる人が普通の人でないことをマノアに気付かせることになりました。彼がその人の名を尋ねたとき、彼はその名が「それは不思議である」と答え、マノアはそれ以外何も聞くことができなかったのです。

マノアが子山羊と穀物の捧げ物とを岩のうえで捧げた後、彼とその妻はその人がその犠牲の光を受けてどのように見えるか眺めていました。主の御使いが行った方法は驚くべきことでありました。炎が立ち昇ったとき、主の御使いは祭壇の炎の中を天に昇っていきました。これはマノアとその妻にこの人が主の使いであることを認識させることになりました。そして、彼らは顔を地にひれ伏しました。迷信的な恐れにかられて、マノアは、主の栄光を見たのだから、きっと死ぬであろうと言いました。

マノアは当時イスラエルに見られた信仰から,そのように語りました。しかし、マノアは妻によってその誤りを正されました。「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」とマノアの妻は答えました。

マノアとその妻は正しい光の中で実に多くのことを見ました。しかし、それはなにもかもというわけではなかったのです。この人はただの御使いではありませんでした。彼は既に何回も主の民に現されていた主の使いでありました。この使いの者はイエス・キリストを指し示す存在でありました。彼はその名を不思議と答えています。

神において、イエス・キリストにおいて、わたしたちは恵みの奇跡を見ます。私たちが自分では感じることが出来ないことが救い主の中にはあります。この方の中に私たちのための、罪人のための、強情な民のための恵みがあります。

キリストにある神の恵みは全ての罪に打ち勝つ。これはまた、マノアとその妻に約束された子の誕生においても示されました。それ故、サムソンの誕生は贖い主を予表する一つの預言でありました。贖い主はその民をペリシテ人から救うだけでなく、罪と全ての敵からも救われます。肉におけるその顕現の後、彼はその民と共にパンを食べることを再び拒まれることは決してなかったのです。彼はその民と共に住んで絶えず十分な交わりをもたれることを望まれました。

子供が生まれたとき、マノアとその妻はその子にサムソンという名を付けました。それは巨大な者を意味します。その名の選択は彼らが神によって導き始められたことを示していました。この子はイスラエルに救いをもたらす者となりました。

旧約聖書講解