士師記講解

6.士師記6章1-24節『ギデオンの召命』

士師記の中でギデオン物語は最も長い。次いで長いサムソン物語とともに信仰者の間で最も愛されてきた物語の一つです。今回は、特にギデオンの召命に関する物語を取り上げます。

1節でイスラエルは、「主の目に悪とされることを行った」といわれ、ここでもイスラエルの苦難の原因が、イスラエル自体の罪にあるとされています。これまでのイスラエルの審き手はカナンの中の先住民であったが、ここではミディアン人が用いられています。丁度イスラエルがカナンに入ってきたのと同じような経路を辿ってミディアン人は攻めてきました。かつては砂漠の遊牧民としての生活をしていたイスラエルも今ではすっかりカナンでの定着民としての生活が身につき、農業と牧畜によって生計を立てていました。そして、イスラエルの戦いは、カナンの内部での先住民と外からの遊牧民との間でも存在しました。

イスラエルはミディアン人に7年間悩まされ、その攻撃を避けるために山にある洞窟や洞穴や要塞に隠れて生活したと言われています(2節)。ミディアン人はアブラハムとケトラとの間で生まれた第四子に由来し、ヨセフはその兄弟たちによってミディアン人に売られ、モーセはミディアン人の祭司エテロの家に寄留しその娘ツィポラをめとりました。それゆえ、ミディアン人とイスラエルとは血縁関係にある間柄でした。しかし、今やそのミディアン人がラクダに乗って、種を蒔く頃、また収穫の頃にやって来て、家畜にやる餌さえも残さず、収穫物を、まるでイナゴの大群が押し寄せるように襲ってきて根こそぎ持っていきましたので、その悩みは深刻でした。

イスラエルはこの苦しみを経験して主に叫び求めたので、主はイスラエルに一人の預言者を遣わされた(7、8節)。それがギデオンです。ギデオンは士師とは一度も呼ばれていませんが、士師の中でも最も重要な人物であったという印象をこれらの叙述によって与えられます。8節後半から、総括的にギデオンのメッセージが述べられ、ギデオンの召命の記事は11節から続きます。

ギデオンの言葉は、神がエジプトからイスラエルの民を助け出した大いなる救いの御業を語り、イスラエルの民が住んでいるエモリ人の神々を礼拝してはならないと述べています。しかし、イスラエルは主の言葉に聞き従わなかった。ここに、イスラエルの罪があることが明らかにしています(8-10節)。神はこのイスラエルの罪を審くために、ミディアン人を用いられたが、今やその叫びを聞き、ギデオンを遣わしイスラエルを救おうとしておられるのです。

ギデオンの父はアビエゼル人ヨアシュでマナセの一員であるといわれています(11節)。ギデオンが預言者として主の召命を受けたとき、ミディアン人を逃れ葡萄しぼりの酒舟の中で小麦を打っていたと言われています。つまり、ギデオンは平凡なミディアン人を恐れる弱い一人の人に過ぎませんでした。神の救いの歴史において神の人として立てられる人の生涯は、決して初めから雄々しい姿を示してはいません。アブラハムも、モーセも、多くの弱さをもつ人たちでした。

しかし、主の使いの者はギデオンに、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」(12節)と呼び掛けました。ギデオンはこの召命によって、勇者として主によって立てられたのです。主の召しは現在のその人の状態を超えて神の将来を指し示すことによって、励まし力づける働きをします。しかし、ギデオンには現在の自分の余りにも悲惨な状態に目が奪われて、またミディアンを実際恐れて生活していた自分を勇士と見なすことが出来ませんでした。彼の主の前に示した最初の反応は、主が共にいてくださるというなら、何故、現実のイスラエルがこのような惨めな状態なのか。あの出エジプトの驚くべき御業は一体何処にいってしまったのですか(13節)、という抗議の言葉でした。先祖たちが繰り返し、「主は、我々をエジプトから導き上られたではないか。」という言葉は、イスラエルの信仰の出発点でした。この救いの出来事を想起して、神を信じることが旧約聖書の信仰の中心でありました。しかし、余りにも厳しい状態の中では、この信仰を持ち続けることがしばしば困難となりました。ギデオンは自らの弱さを主の前に正直に告白しているのです。

しかし、主は、「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14節)といってギデオンを励まし、敗れの中にある彼を立たせます。人間の肉の腕は弱くても、遣わしたもう主の力で人は立ち戦うことが出来るのです。主が召し共にいて遣わしてくださる。預言者はこの大いなる事実に目を向け立ち上がらなければならなかったのです。主は人を誇らせないために、人の弱さの中で栄光と力を現されるお方なのです。

それでもなお、ギデオンは躊躇しました。分団の小ささ、年齢の若さを理由に尻込みしました。モーセは言葉の不自由さの故に、エレミヤは若さの故に同じような困惑を示しましたが、ギデオンも彼らと同じ恐れを抱いていました。 恐れるギデオンに主は繰り返し、「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミディアン人を打ち殺そう。」と呼び掛け、励ましました。主にとっては、一人であっても大人数であっても、敵を討ち滅ぼすのに事情は一緒です。主の全能の力の前に数は無力です。力そのものが主によって与えられることを、ここでも明らかにされています。

しかし、何という不信仰、そう言いたくなるようなギデオンの主の前での懐疑がなお見られます。「しるしを見せてください。」(17節)、といってギデオンはしるしを求めました。新約聖書において、しるしを求めることは、不信仰としてしばしば非難されていますが、主イエスの十字架の死と復活を知らない旧約の信徒にとって、しるしは重要な意味を持っていました。ギデオンの逡巡は自らの罪深さ弱さを知っているが故に、そうせざるをえない自然な感情だったのです。主の使いの顕現と約束の言葉だけで召しに応えていればという思いは、当事者でない私共には簡単に言えることであっても、破れの中にある人間にはそんなに簡単なことではないのです。

この腰の重い逡巡する者を、主は愛し忍耐し励まして用いられるのです。ギデオンの願い通りに、捧げられた供え物を焼きつくし、ギデオンが会ったのは正に主であったことを確信させるしるしを与えられました。

しかし、主を見たものは死ななければならないという信仰がモーセにもサムソンの父マノアにも見られたように、ギデオンにもありました。神は聖であり超越者でありますから、人間から全く離れた存在です。だから、主を見た者は必ず死ぬという信仰がありました。しかし、主は「あなたが死ぬことはない。」(23節)と約束し、ギデオンを押し出しました。

神は、イザヤの召命においてはその唇を祭壇からとってきた燃え盛る炭火でふれて、神の道具として浄められたように、ギデオンに対しては、天からの火で捧げられたものを焼き尽くすことによって、勇気づけ神の器として用いようとなさいました。

神の現臨の前に立つ人は全て、自らの罪深さと相応しくないという恐れを抱かされ、逡巡するほかありません。しかし、主が与えるしるしときよめに与かって、破れの中にあるこの弱き人間が神の道具として用いられていくのです。ギデオンは「安心しなさい。」シャロームという言葉を主から頂いて、そこに主の祭壇を築いてそこをアドナイ・シャロムと名づけました。「主は平安」という意味です。主との出会い、主の召しに与かり、臨在の主との交わりによってギデオンは主の平安を経験していきました。まことに主は破れの中にいるギデオンを主の平和へと召したように、私たちを主イエスにあって、主の平安を与えてくださっています。それは、召しに与かったことに満足してそこに留まるのではなく、主に礼拝を捧げ主との交わりに生きる者に与えられる平安です。

旧約聖書講解