士師記講解

4.士師記4章1-24節『デボラとバラク』

この物語は、ヨシュア記11章のメロムの水の辺の戦いに出てくる同じハツォルの王ヤビンは、イスラエルに敵対する北パレスチナの多数のカナン人の指導者として登場している。ヨシュア記11章1-15節は、北部パレスチナの全ての町々に対する勝利を記している。ハツォルの王ヤビンがイスラエルに対抗する連合軍の首領として現れるが、士師記4章にもヤビンが重要な存在であることを示し、シセラの指揮下にあるカナン人との対戦がヤビンと結び付けられている。デボラの歌(士師記5章)では、イスラエルの本来的な敵はシセラであるが、彼はヤビンの将軍であるので、彼の上位にあるヤビンがイスラエルの大いなる敵として初期パレスチナの歴史の中において人々の記憶に残り続けた、と考えられる。ヤビンの支配領域であるハツォルは、フーレ湖の南西にあり、紀元前2千年紀の半ばには、既に重要な場所として知られている。ヨシュア記11章10-11節では、ヤビンはヨシュアによって打ち負かされ、ハツォルは破壊されている。士師記4-5章の英雄バラクはナフタリ族の出であり、ナフタリ族は勇敢に先頭に立って戦っている。ヨシュア記11章の素材の原型はナフタリ族の初期の歴史と関係があるものと考えられる。

これまでのイスラエルの圧制者は東と南東からの侵入者であったが、今や北方からの脅威が始まる。ヤビンがイスラエルを圧迫して苦しめたのは、主が彼の手にイスラエルを売り渡されたからであると言われている(士師記4章2節)。エジプトからイスラエルを救い出された主は、シナイの荒野でイスラエルと契約を結び、彼らのために戦い、約束の地に導き入れたが、イスラエルの民はカナンで農耕生活を身につけることによって、主の恵みと導きを忘れるようになった。5章8節に記されているデボラの歌にあるように、カナンの「新しい神々」を選んで真の宗教と信仰から離れていった。それゆえ、主はヤビンの手に渡してイスラエルを裁かれたのである。

それは、士師記が繰り返し記す主の歴史支配の方法である。カナンの王は神の手としてイスラエルを苦しめた彼らを神の目的に仕えるものとされた、これが士師記の著者の歴史観である。歴史はこのように神の支配のもとにある。イスラエルは、これまでの地方的な単発的な組織されない敵ではなく、初めて組織された強大な敵に直面した。ヤビンは、鉄の戦車九百を持ち、20年間イスラエルの人々を苦しめた強大な敵である(3節)。この大部隊を指揮していたのが、将軍シセラである。20年間苦しめられたイスラエルが主に叫び求めたので、主は女預言者デボラを士師として立て、イスラエルを裁く者とし、戦士バラクをイスラエルに起こして助けられた。

この物語の面白さは、二つある。第一は、これまでに経験したこともない最も強大な敵と対戦したのに、この戦いに参加した部族はイスラエルの最も小さい力の弱いナフタリとダンの部族であり、しかも僅か一万の兵士だけだったことである。シセラは九百の戦車と自分と一緒にいた民を全部引き連れてこの戦いに参加したのと対照的である。この戦いを指導したバラクはデボラにナフタリとダンの部族から一万で戦えと命じられ、不安だったに違いない。だから、タボル山にデボラも一緒に来て、戦いを見守ってほしいと申し出たのであろう。大の男が女預言者のデボラが一緒に行ってくれるなら、戦いに行きますと答えているのである。

デボラは一緒に行くと答えたが、この戦いの光栄はあなたではなく、主はひとりの女の手に売り渡されると預言した。これが第二の面白い点である。この世の武器と人の数に頼ろうとする信仰を木っ端微塵に打ち破る痛快さが、この物語の魅力である。

戦いの舞台はタボル山からキション川へと移っていく。預言者エリヤが後にカルメル山でバアルの預言者たちとたった一人で戦い勝利して、バアルの預言者たちを殺してその血をキション川に流した物語は大変有名であるが、この川は、夏は渇床となるワディである。普段は渇ききった川床だが、冬の雨とともに奔流と変わる。イスラエルにとっては幸いなことは、この戦いが、冬の季節を迎えていたことである。最新の戦車部隊九百を持っていても、あのメロムの畔のとき同様、ぬかるんだ川辺に追い込まれたのでは、それは、寧ろな無用の長物と化してしまう。

こうして冬の雨が味方して、イスラエルは僅か一万の歩兵で戦車部隊に勝利することができた。この勝利を現代の合理的な目で眺めれば、単に自然が味方したに過ぎない。しかし、これを信仰の目で見るときに、神がこの背後でイスラエルを勝利に導いた導きの確かさをみることができる。士師記の記者はこれを何処までも主の勝利と見ている。デボラは14節でバラクに「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」と言っているからである。

少ない手勢を率いるバラクは、この言葉を信じて主の御手に委ねて勝利を経験した。主は、このように御声に聞き従う者に、自然の支配をも用いて勝利をもたらしてくださるのである。

しかし、決定的な大勝利は、もっと別なところで用意されていた。デボラは、勝利の光栄はひとりの女に与えられると預言していたが、その女とはデボラ自身ではなく、ケニ人ヘベルの妻ヤエルである。主を信じ、主の手に委ねたバラクが経験した勝利は、人に栄光を帰すことのできない方法で与えられた。あの恐ろしい敵の将軍も女の手によって滅ぼされるというどんでん返しが、この物語のもう一つの面白さである。今日の目から見れば、この物語の倫理性について疑問も出てくる。しかし、時代の判断は、その時代のものの見方、考え方からして行かねばならない。

士師記がわれわれに伝えようとしているメッセージの中心は、人間的な武器の力と人脈に頼ろうとしたシセラが破れて、ただ神の言葉を信じ委ねたバラクとその軍隊が勝ったと言うことである。主の歴史における支配と導きは、あの荒野におけるときのように、今も変わりなくあることを、この出来事を通して主は示された。主は自然も女の知恵と力をも用いて神の民を守られる。地上の最強の部隊も、主の言葉を信じ委ねる者の前には立ち向かうことは出来ない。これが、この物語のメッセージである。人間の愚かさは破れ、主の御心だけが固く立つことを覚えることが大切である。

旧約聖書講解