申命記講解

21.申命記28章69節-29章28節『モアブで結ばれた契約』

28章69節は、それに先立つ説教の締めくくりではなく、以下に続く第三説教を導入する言葉です。この導入句は、29-30章には、ホレブ山で授けられた契約とは別に「モアブ」で授けられた特殊な出来事、契約締結であることを示しています。このことについては、他に旧約聖書のどこにも言及がありません。そして、このモアブ契約の表象が申命記で支配的であったことは一度もありません。申命記は何よりもモーセの決別説教として、シナイの啓示の解釈としてのみ理解されているからです。それ故、モアブ契約の儀式に関しては、モーセがヤハウエの指示に従って「イスラエル」と結んだ契約では、モーセ自身がもう一度契約の仲保者として(26:17―19参照)機能しなければならなかった、という理解が示されています。

29-30章は、歴史的経緯を述べる前史(1-7節)があり、それに続いて8節に「原則の宣言」があり、契約当事者の一般原則(9-14節)、契約条項と個人に対する制裁(15-19節)、団体に対する制裁(20―27節)、祝福(30:1-10)、呪いと祝福(30:15-18)と続き、証人召喚(30:10)で終わる、宗主権条約、型式が用いられています。

1節-7節の歴史回顧は、特に荒野時代の苦難とそれを切り抜けてきた経験とを、神が行ったイスラエルへの試みと理解している点において、8章2-4節の歴史回顧を想起させるものがあります。しかしながら、それと異なる全く新しい視点も含まれています。それは、イスラエルが自分の身に起こったことを、当時はまだ全く理解していなかったこと、すべては今という現在になって初めて理解されるにいたったという視点です。古くから伝わってきたことが巨大な危機の時代になって、初めて原則的な意味にまで至る理解を開示する、という思想は黙示文学において初めて姿を現わします。この表象の助けを借りるならば、それが、かつてと今との間に橋を架け、古き時代の現実性を根拠づけるのを容易にすることができます。だから、古い伝承が、今という時になって初めて、そのすべての意義において、理解され得るようになるのである、とフォン・ラートはこの箇所の理解の道筋を示しています。

イスラエルがヤハウエの不思議な業をその肉眼で見たという1,2節の描写に続いて、申命記の著者は、3節において、「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」といって、民の霊的盲目性を明らかにしています。これは、イザヤ書6章9-10節を先取りするものであり、このイザヤ書の言葉は四福音書全部(マタイ13:14-15、マルコ4:12、ルカ8:10、ヨハネ12:40)と使徒言行録28:26-27で引用されています。3節は、エジプトを脱出した世代と比べて、当時の申命記の聴衆がそれまで欠けていた霊的な識別力を持ち始めていることを暗示しています。こうした識別力は、国の滅亡とバビロン捕囚という大破局を経験し、その悲惨の原因と意味を洞察する目を持つ預言者たち(イザヤ、エレミヤ、第二イザヤ、エゼキエルなど)が語った預言を深く捉えなおそうとする時代になって初めて生まれたものであると言えます。フォン・ラートの指摘する黙示文学を生む時代まで下らせないにしても、捕囚期以後の時代を経て初めて生まれた洞察力であるということができるでしょう。

9-14節は、説教という性質を欠く公的な「記録文書」の類のものである(N・ローフィンク)との指摘があります。ここでは契約締結のため召集されたイスラエルが神の民となる目的が13、14節において明確に規定されています。「 わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである」、とモーセが宣言していることは重要です。モーセが媒介する神との契約に入るのは、その前に置かれた律法の言葉に聞き従う限り、モーセと同時代人でなくても、どの時代に生きる人でも自ら進んで契約に入ることができる、という壮大な宣言であります。この段落では、非常に力強く「今日」が強調されています。1-14節には、それが6回も見られます。

18―20節は、不服従の場合の「呪いの脅かし」に相当し、申命記は、既に書物として存在しており(19,20節)、それは、この伝承が申命記の最後の段階にある層に帰すべきことを示唆しています。「木や石、銀や金で造られた憎むべき偶像を持っているのを見て来た」(16節)という確認の言葉は、捕囚の地に住むユダヤ人が体験したもので、過去に先祖たちが体験した事柄と捕囚期のユダヤ人が現実に経験している事柄とは重なり合っています。モーセの言葉によって、彼ら捕囚の民やその後の時代の読者たちは、出エジプトを経験した先祖たちと一体感を持ち得ることができたことであろう。またそれによって捕囚の民は先祖たちがたどったのと同じように、自分たちも再び約束の地に戻る希望を持ったに違いない、と鈴木佳秀は解釈しています。

一人称複数形を使う「今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような」(17節)には、異教世界のただ中に住む捕囚の状況が投影されています。「我々の神」を捨てて、現地の文化に土着してゆく者たちが大勢いました。捕囚の状況の中で、すべてのユダヤ人が唯一神教を守り通したのではありません。「男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない」に見られるように、宗教が個人のレヴェルで問われる時代であった。「男、女、家族」と言い及んだ後で、「部族」に言及するのは、伝統的な家父長制社会が機能せず、個人の宗教的責任が問われ、宗教性がその内面の関わるものとして意識されるようになった時代を示す証例として、鈴木佳秀は解釈しています。

21.22節は捕囚時代の現実を描写しています。その現実をとらえて、「なぜ主は、この国にこのようなことをなさったのか」、という言葉は、神義論的な問いかけで、王国の滅亡と捕囚を前に人々が抱いた率直な問いに対し、契約を、「彼らが捨て、他の神々のもとに行って仕え、彼らの知らなかった、分け与えられたこともない神々にひれ伏したからである」(24,25節)と明確な答えを示し、「この書に記されている呪いがことごとく臨んだのである」(26節)と書物に記されていた呪いの威力を強調しています。

28節の「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである」は、知恵文学の類型に従って書かれています。神だけにしか知られていない「隠されている事柄」(ニスタロット)は、未来を意味します。捕囚時代のイスラエルの民は、ヤハウエが解放の約束をする成就の時をしきりに知りたがっていました。「啓示されたこと」(ニグロット)とは、ヤハウエがイスラエルの民に、今も子孫も忠実に守るように与えられたみ教え(律法)です。

最後に、3節の、「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」という、民の霊的盲目性の問題を旧新約聖書全体の文脈から考えて、このテキストの結びの言葉とします。

エレミヤは、「新しい契約」(エレミヤ31;33)について語り、その契約は、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というものでありました。それはエゼキエルによって、エゼキエル書11:19,20、36:26-28で、心に与えられた新しい霊で、石の心ではない肉の心であると言われています。つまり、石のようなかたい死んだものではなく、肉のように生きた柔らかい心である、という意味で述べられています。パウロは、それは、「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼」(ローマ2:29)であると述べています。主の律法は、人の心に記憶され、理解する心が豊かにされてはじめて、守られ、生きたものとなります。

霊の目が開かれて行く主の聖霊の力によってなされることが同時に伴わない限り、根本的には守れないのが律法です。この点で、「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30:11-14)という言葉を心に留めることが大切です。神の御言葉(律法)を、新しい霊の心で、そのような近さで聞くことが大切です。

旧約聖書講解