ルツ記講解

序  1.ルツ記1:1-18『あなたの神はわたしの神』

ルツ記は、異邦人の女性名をタイトルに持つという点で、聖書の中でもユニークな書です。神の救いの計画とそれを成就する糸は、この異邦人女性ルツ通して如何に実現していくか、わずか4章の短い物語の中で、ドラマチックに描かれています。

ルツ記は、「士師が世を治めていたころ」という書き出しで始まっています。その最後は、ダビデの曽祖父オベドの誕生を告げて終わっています。これによってこの書が記す時代が、イスラエルが王朝を持つ国家として成立する以前の、混乱した士師時代であることが示されています。

この物語で主役となるルツは、ダビデの曽祖父オベドを生み、救い主の系図に名を記される光栄な女性です。

このドラマの糸を手繰っているのは、主(ヤーウェ)でありますが、この物語の中で神は決して表に現れません。このドラマの語り手が神の働きを直接述べるのは、本文の初めと文末において、「主がその民を顧み」(1:6)、「主が身ごもらせたので」(4:13)と記す場合だけです。そして、このドラマの主人公ルツの口から「主」という言葉が出てくるのは、帰国の場面のクライマックスにおいて、彼女が主の名で誓いをしているところ(1:17)だけです。しかし、本書全体を通じて散りばめられている祝福や嘆願、あるいは嘆きの言葉に、すべてのことの背後にある神が暗示されています。語り手は、神が行われることと、物語に登場する人々の生き方の間に織り成される素晴らしい対応を通して、神の現存を示しています。神の意志を実現していくのは、神の支配の下に目立たない自己の人生を生きていく人々です。一人の素朴な女性ルツの誠実な人生を通して、救済史の中でダビデの出生が準備されていきます。そして、新約のマタイ福音書との関連で読むなら、神の救いの計画と歴史は、ただ神の慈しみ(ヘセド)の御手によって実現していくのでありますが、その神の慈しみの御手に信仰をもって委ねていく人々を器としながら、成就へと向かうことをルツ記は告げています。これがルツの物語の読み取るべき大切な点です。

1.ルツ記1:1-18『あなたの神はわたしの神』

物語は「飢饉」のために故郷を捨て他の土地に移り住むことになる家族の説明をもって始まっています。旧約聖書には、「飢饉」がその民イスラエルの運命を転換させる大きなきっかけとなる出来事が他にも記されていますが、ルツの物語では、「飢饉のモチーフ」は、物語全体の展開と深くかかわっています。イスラエルの名をいただいたヤコブは、飢饉によって、エジプトに下り、そこで息子ヨセフと再会し、そこに長くとどまることになり、イスラエルはしばらくエジプトで豊かさを享受することになりますが、やがてヨセフの事を知らない王が現れ、イスラエルの民は奴隷の苦役に苦しむことになります。そして、その苦しみの声を聞いた神が、イスラエルを省み、モーセを立て解放へと導かれます。

この物語の舞台の中心となるベツレヘムの地名の語源は「食べ物(パン)の家」の意味を持っています。しかし、そのベツレヘムが飢饉に見舞われ、エリメレクの家族は、モアブの地に移住します。物語はこの事実を伝えて始まります。

モアブは、死海の東にある高原台地で、列王記下3章4節によれば肥沃な地です。モアブ人は、聖書によればイスラエルと血縁関係にあります(創19:30-39)。しかし、同時にイスラエルの信仰を脅かすもの(ヨシュア24:9)でもあります。イスラエルとの歴史の中での関係は、実に複雑でありますが、ルツ記ではモアブとイスラエルの関係は良好な状態が認められます。

エリメレクは、妻とその子達を連れて、飢饉を逃れるため、モアブに移住するのでありますが、語り手は、物語において重要な役割を果たすことのない彼の名と、彼がエフラタ族の出身であったことのみを明らかにしています。ここにドラマを巡るひとつのアイロニー(皮肉)が込められています。エリメレクの名には「わたしの神は王」という意味があります。そして、エフラタには「穀物の地」という意味があります。それなのに、この地は、飢饉に見舞われ、穀物を生み出さず、「わたしの神は王」という名を持つ人物は、王なる神の下を離れるように、モアブに逃れるのです。当時のイスラエルは男中心の社会です。夫がモアブに行くといえば、妻は一つ返事でというよりも、無言のうちについていかねばならない立場にありました。

そして、モアブで、この家族は、穀物を手にし、二人の息子マフロンとキルヨンとは、モアブの女を妻として迎えます。妻となるのはオルパとルツです。この家族がモアブで手に入れたのは、大変大きいものです。

しかし、モアブでこの家族は10年ほど暮らし、夫のエリメレクは、早くして死に、二人の息子も死んでしまいます。イスラエルにおいて家督の権利を主張できる男たちだけですが、その男たちは一人もいなくなるわけです。それは、残された女たちにとって生存脅かす危機的状況を物語っています。

エリメレクの妻ナオミが「一人残された」(5節)という言葉には、彼女の置かれている非常な悲惨さ、空虚さがとりわけ強調されて示されています。しかし、この物語は、ナオミの悲惨さだけを伝えているのでありません。この悲惨な現実から立ち上がるナオミの姿を描いています。彼女はなぜ立ち上がることができたのか、その重要な秘密を解く鍵の言葉が6節にあります。「主がその民を顧み」という言葉です。語り手は、このナオミの悲惨な現実に、その絶望的な状況に既に始まっている主なる神の顧みを伝えているのであります。

そして、ナオミには自分と同じ寡婦の立場になった二人の息子の嫁たちがいました。ナオミがベツレヘムに帰ると聞き、嫁のオルパとルツもついていくといいます。ナオミは誠実でやさしい嫁たちの申し出を喜びますが、二人に「自分の里に帰りなさい」と強く勧めます。しかし、二人は、どうしてもナオミについていきたいと泣いて訴えます。ナオミは、これほどまで自分を慕ってくれる嫁たちの言葉に、しばし息子を失う悲しみを忘れるほど嬉しく思ったことでしょう。しかし、そうであるが故に、この嫁たちの将来を心配でなりません。ナオミは自分の力では何もできない現実を知っていましたので、彼女がなしうるのは、この二人の嫁を自由にしてやり、彼女たちの将来に主の慈しみのみ手が伸ばされることを祈り願うことだけでした。だから、ナオミは彼女たちが自分を慕ってきても、彼女たちにたいしては何の報いも受けることのできない現実を語らざるを得ません。11-13節においてそのことが具体的に語られています。

これらのことはレビラート婚(順婚)という制度を背景にして語られていますので、その制度を知らないと、ナオミのいおうとしていることを理解できません。レビラート婚というのは、申命記25章5-10節に記されている結婚に関する規定で、順婚とも呼ばれるきまりです。この掟によりますと、長男に子供が生まれなかった場合、その生き残った兄弟は、順にその死者の寡婦を妻とし、彼女の生む長男に亡夫の家を継がせる義務を負っていました。この義務をおろそかにすることは、死者に対する礼を欠く恥ずかしいこととされていました。しかし、このルツ記では、レビラート婚の掟は、兄弟の枠を超え、親戚にまで及ぶものとして語られていますが、本章においては、ナオミには既に男の子はなく、寡婦となった息子の妻たちにその義務を果たす子を自分がもうけることのできない現実を示し、ついてくることを断念するように語ります。男がすべてを相続する社会にあって、女が一人生きていくことの困難を、ナオミは誰よりもよく知っていたからです。

しかし、ナオミは、自分のことに関しては、「主の御手がわたしに下されたのですから」(13節)といって、その現実を信仰的に受け入れています。

このナオミの言葉を聞き、オルパは別れを告げ、ナオミの下を離れますが、ルツはついていきます。ここでオルパとルツの決断を分けたものが何であったかが、はっきり示されています。ナオミはルツに対し、オルパは、「自分の民、自分の神の下へ帰っていこうとしている」と告げています。あなたも彼女の後を追え、と告げます。しかし、この言葉を聞いて、ルツは、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と答え、もし不誠実に自分がナオミの下を離れるようなことがあれば、「主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください」と、主の御名によって誓っています。

オルパは自分の幸せを、自分の民と、自分の神に求めて、ナオミの下を去りますが、ルツはナオミの信じる主なる神を自分も信じ、その神の下にある幸いを求めようとします。自分の民も自分の神も捨て、ナオミに従うことによって、主なる神の下に委ねようとする異教の女ルツの信仰を通して、ナオミは幸いを受け、また選民イスラエルは神の恵みに預かっていく道が用意されます。そして異邦人女性ルツは、自分の民、自分の神を捨て、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と告白して、ナオミに従うことにより、救い主の系図に連なる幸いな女性となります(マタイ福音書1:5)。

しかし、このことの背後に合って事柄を支配し導いておられるのは神です。「主がその民を顧み」という言葉を聞き逃さないことが大切です。主の顧みを信じるナオミとそのナオミに従うルツは、民を顧みる主に己が身を委ねることにより、その救いの恵みに与ることができたのです。この人間の織り成すドラマの背後に、神の深い配慮と導きが見えない形で表されています。神は人の歩みを顧みたもう方です。その顧みを信じるが故に、人は、その神と結びつきを保ち、ひたすらその顧みに期待し、生き抜こうとする力を与えられます。ナオミはその様な信仰で、ベツレヘムに帰ろうとします。そして、顧みる神を信じるナオミを慕うルツもまた、「あなたの神はわたしの神」といって、ナオミに従うことにより、この顧みたもう神の顧みにひたすら寄りすがって共に生きようとします。そして神は、このようによりすがる民の信仰を顧みられるお方であることを、この物語から学ぶことが大切です。

旧約聖書講解