エゼキエル書講解

34.エゼキエル書36章24-28節『イスラエルの真に新しい創造』

ここで示される主の言葉は、イスラエルの民のエルサレムへの帰還が主題として語られているのではありません。イスラエルの真に新しい創造です。それはまさに神の恩恵による救いを人間心の変革にまで及ぶ次元まで実現させるものとして語られています。その実現によって、これまで主の民となる一人一人に求められてきたことが、完全に満たされることを明らかにしています。

主の民の内面刷新の最初の行為は、25節に記されているように、すべての汚れを清めることによって実現されます。それは詩篇51編9節に示される水による洗い清めという祭儀の表象をもって語られています。この祭司による清めの儀式は、出エジプト記12章22節、レビ記14章4節、49節以下、民数記19章6節以下においては、犠牲の血を塗る、或いは清い水で清められた血を降り注いで清める儀式として行われることが明らかにされています。これら祭司法典に伝えられている清めの儀式においては、清められた水を用意し降り注ぐことを直接家に行わないにしても、清めにおいて重要な役割を果たすものとして位置づけられています。

しかしエゼキエルは、水による清めの儀式をシオンの新しい神殿で行われる儀礼として行われるべきことを考えていたわけではありません。彼が祭司法典の表象を用いたのは、汚れが本当に取り除かれるという確信を、イスラエルに与えることにありました。その理解を助けるために祭儀におけるこれらの象徴行為を用いたに過ぎません。

預言者にとって、汚れは、人間を神から引き離し他の支配者や諸力へと押しやる欲望に人間本性がさらされているという、内面的混乱を表す根源的な罪として捉えられています。この人間の心の内奥にある欲望は、神の恩恵によって、神と交わるために神と結びつける信頼関係を打ち破るものとして預言者は理解していました。この認識は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルにおいて共有されていました。

人間の心を支配する神に反逆する思いが神の戒めに対する反逆の核心があり、ここから派生する人間存在を汚す心情が、その人間を神から引き離し、悪の呪いの世界に引き渡すのです。この心情に支配された人間は、神の意思を無視することが奴隷的習慣となってしまっているため、内面生活全体が汚辱にまみれることになります。エゼキエルは、この人間の奴隷意志の問題をエレミヤと共に根源的レベルにおける革新を必要とする問題として認識していました(本書16,20,23章参照)。神の赦しが人間の心を一新し清める霊の働きとして機能することが、汚れの力を滅ぼし、それによって人間内面の全体が神の意思に従うことを喜ぶものへの転換を可能とします。

18章でエゼキエルは過去の罪との外面的結びつきを神の命令で打ち破っていますが、ここでは、その内面的影響からの解放を告げています。いかなる魔術的力も人間本性に留まらせてはならないし、罪の束縛からの離脱を実現しなければ人間は罪から解放されません。パウロは、罪人が洗われ、清められ、義とされることを、神の偉大な救いの行為として、それをキリストの名のみならず、聖霊と結び付けていますが、ここの預言者エゼキエルの文章の中心に驚嘆すべきあり方でパウロは触れています(Ⅰコリント6:11)。

26節は第二の革新の行為を明らかにしています。新しい心と新しい霊を主なるヤハウエが送られることをエゼキエルは明らかにしています。ここでは、心は人間の意思のことで、霊(ルーアハ)は、それより一層包括的で人間の内的生命全体を一新する生ける神の力として示されています。エゼキエルは、それを石の心であったものと対照して、新しい心を肉の心として記しています。エゼキエルは、神に心を閉ざし、反逆の家となり、罪に対する無感覚に陥っているイスラエルを石の心として描きます。この強情な人間の態度は、人間の一時の決心や一瞬の感動では変えることはできません。神の言葉を新たに聞き受け入れることが可能になるためには、神の創造的な介入が必要です。
その転換は神の霊が一人一人に注がれることによって実現します(27節)。この霊によって神は人間に内面全体を動かす力を与え、神の本質及び意思との一致にまで人間を導かれます。イザヤは、神の本質の力としての霊が神の聖と尊厳性を伝達するものであること(イザヤ30:1)、そして民を導くべく召された指導者、とりわけメシア王は、この力を通して、神から離れた民を宗教的服従と道徳的服従に至らせることを認めていました(イザヤ11:2)。エゼキエルは、イザヤの聖霊による支配の理解を受け継いでいます。
神の霊は、神の民一人一人に浸透しして内的転換を引き起こし、神の聖の力が人間の内奥をとらえ一新し神の本質に似たものとします(神のかたちの回復)。人間の意思が神の霊の力と永続的に結合して、神の意思に完全に一致し、それが人間の生活を神の言葉(戒め)に従って形成する力を与えるのです。こうして神と人との真の交わりが可能となり、人間は古き罪ある自己に帰ることが不可能になるまで清められます。

人間の心に神の本質が植え付けられ、心が一新されることで真の神との交わりが回復します。そうして神の赦しが全面的になされます。人間の弱さにもかかわらず、その恵みの力が信仰から信仰へと、人間の判断、思いを変えていくのです。だから、霊が注がれることは、預言者の働きを強め完成するものです。
エゼキエルは、古い契約に新しい契約を対立させ、新しい契約を新たに備えられた故国への帰還と、神とその民の新しい命の結びつきの回復をもたらすものであることを明らかにしています。この神の本質の力によって支えられ浸透されているという契約観は、一切の神秘主義的な熱狂を払拭させ、むしろ神の戒めを喜んで受け入れさせる霊の付与の結果であることを強調しています。

エゼキエルは、キリスト者の内的生活の新約的な基礎付けを様々な形で先取りしています。しかし、新約聖書における霊の賜物の特徴をなす、神から遣わされた仲保者と霊との密接な結びつきがここには欠けています。それにしても、旧約聖書がイスラエルの民の生活にはめ込まれていた、本質的な面での新約的な生の賜物の現実的な先取りと、新約聖書へつながる聖霊の働きの重要な理解の橋渡しが、エゼキエルによってなされています。

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