エゼキエル書講解

28.エゼキエル書24章1-14節『錆びついた深鍋』

エゼキエルは、自分に臨んだ主の言葉がいつであったか記述するよう神の命令を受けています。第九年の十月十日、この日、バビロンの王がエルサレム攻撃を始めたからです。

しかし、この出来事について確実なことを知っているのは、神の使者(エゼキエル)だけです。記された日付は、前589年末を指しています。エゼキエルは、この日付を牧会的な意図をもって書きとめています。

エゼキエルは、日付を書き記すことと並んで、「反逆の家」(3節)に向けられる滅びをどん底まで示し、そのかたくなさを震撼させるたとえを告げるよう、主から命ぜられています。

3-5節は、祝宴の準備を描写しています。最上の家畜から選り出した肉片と選りすぐった肉を煮て、美味しい料理が用意されます。この光景は、民数記21章17,18節の井戸掘りの労働歌のように、宴会の準備の様子が歌われています。この準備がどのような意味をもつか、聞く者に隠された意味を見出すべく努めさせるために、比喩をもって語られているのです。

6-8節では、流血の町エルサレムへの激しい悲嘆の叫びが述べられています。ここではエルサレムは鉄の鍋料理に譬えられています。その鉄鍋は、錆が固くついていて、取ろうとしても取れないほどになっています。

この譬えは、11章3節のことを取り上げているのではありません。この譬えは、滅びに向かうエルサレムの軽薄な生の悦びを一般的に叙述することによって、エルサレム(国家)の存立を根底から脅かす深刻な災いの叙述へと転じています。それは、支配者たち(バビロン)が、抵抗する人々を打ち破るために引き受けた、絶対に和解することのなかった容赦のない流血を物語っています。それは、「しかし、お前たちはこの都の中で殺される者を数多く出し、路上は殺された者で満たされる。 」(11章6節)、という事実を確認する意味をもっています。そこで示されている神の戒めの軽視を、エゼキエルは殺人者の叫びが天に届かないようにするために、暴力で流された血を地に注ぐ、という古い習慣を描写しています(創世記4:10、ヨブ記16:18)。

イスラエルでは、罪なしに流された血に対する報復がどれほど恐れられていたかということは、申命記21章1-9節の以下の償いの規定に明らかにされています。

「あなたの神、主があなたに与えて、得させられる土地で、殺されて野に倒れている人が発見され、その犯人がだれか分からないならば、長老および裁判人たちが現場に赴き、その死体から周囲の町々への距離を測らねばならない。死体に最も近い町の長老たちは、労役に使われたことのない雌牛、すなわち軛を負わされたことのない若い雌牛を選び、長老たちは、その雌牛を水の尽きることのない川の、耕したことも種を蒔いたこともない岸辺に連れて行き、その川で雌牛の首を折らねばならない。それから、レビの子孫である祭司たちが進み出る。あなたの神、主が御自分に仕えさせ、また主の御名によって祝福を与えるために、お選びになったのは彼らであり、争いごとや傷害事件は、すべて彼らの指示に従わねばならないのである。死体に最も近い町の長老たちは皆、川で首を折られた雌牛の上で手を洗い、証言して言わねばならない。『我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。主よ、あなたが救い出されたあなたの民、イスラエルの罪を贖い、あなたの民、イスラエルのうちに罪なき者の血を流した罪をとどめないでください。』こうして、彼らの血を流した罪は贖われる。あなたは主が正しいと見なされることを行うなら、罪なき者の血を流した罪を取り除くことができる。」

また、エレミヤのことで人々がそそのかされ、暴力でもって彼を殺害しようとした時、その恐るべき結果をエレミヤが思い出させているところに同じ思想が見られます。

「ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」(エレミヤ26:15)

しかし、エルサレムは殺人の痕跡を隠そうとしないばかりか、土で覆うことのできない裸の岩に血を注ぐことで、わざとそれができないようにした(7,8節)。

エゼキエルは、エルサレムの権力者が儀礼上の規定を守れば神の呪詛を免れることができるということを語ろうとしたのではありません。エゼキエルの心にあるのは、神によって認められている法を完全に無視するエルサレムの破廉恥な罪を公然と非難することです。それが、

わたしは復讐のため憤りをかき立て
彼女の血を裸の岩の上に流し
それが覆われないようにした。
という言葉の意味です。

錆ついた鍋となった、償いがたい流血によって汚された町は、神の重い報復を避けることができません。3-5節で述べられたことは、9-12節で形を変えて用いられています。

神は自ら料理をされますが、食べるものを煮るだけでは終わらず、空になった鍋を、融けてしまうまで、灼熱した火の上に置かれます。こうなれば、錆と一緒に鍋までなくなってしまいます。

癒しがたい腐敗に満ちた国は、もはや回復できません。その堕落はこの世から取り除くことでしか処置できません。

ここでは、11章1節以下に記される第1回捕囚で住民の主だった人々の連行を思い起こすことも必要です。

しかし、エゼキエルの関心は、その細部を明らかにすることではなく、この料理の火が燃え上がって炎が一切を滅ぼしてしまう最終の結末にあります。

13,14節は、この破壊を裁判官の宣告に結びつけ、神の清めの意思に反抗するかたくなさは容赦なく根絶されることが明らかにされています。

「わたしがお前たちを集め、わたしの怒りの火を吹きつけると、お前たちはその中で溶ける。銀が炉の中で溶けるように、お前たちもその中で溶ける。そのとき、お前たちは主なるわたしが、憤りをお前たちの上に注いだことを知るようになる。」(22章21,22節)、という言葉がここに確認されています。

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