エゼキエル書講解

23.エゼキエル書21章1-10節『エルサレムの脅威』

この箇所は、謎の言葉とその解釈によるエルサレムの脅威について述べています。

1-4節には、神の命令として南の地における恐るべき火災による神の審判を告げています。「ダロム」は、「南」の意味でありますが、新共同訳は地名の意味で訳しています。その位置は不明です。5節の預言者の嘆きの言葉は、この破滅の描写、謎めいた言葉によって意識的にその意味を隠している事を無視して、平板にその意味を解釈することに対して警告しています。南方を指すこれらの地名を用いての漠然とした表現は、エゼキエル書だけで使われていて、パレスチナの特定の土地について述べられているのではありません。ネゲブはユダの南の地のステップ地帯で森はありません。これらの地名は南を指す一般的な意味に使われていて、エルサレムの方向を表しています。エルサレムは、バビロンから見ると南と見なされていました。

だから、この預言は、預言者がエルサレムにいて、その南ネゲブの方を向いて語っているのではなく、バビロンから見て南の地にあるエルサレムにおいて起こる脅威について述べているのです。つまり、バビロンがその驚異の出発点となると告げているのです。まだ、エルサレムとその神殿はそのまま残っていましたが、イスラエルの地はまだ細々としてではありましたが国としての存在は保たれていました。しかし、全てのものに終わりをもたらそうとする神の裁きは、もう間近にまで迫っていました。だから、この預言は、前586年のエルサレムとその神殿の大破局を見ています。

森の火災という表象は、イザヤ書10章17節以下、と9章17節に於いて神の審判の方法として用いられています。そこでは、神に選ばれ、聖なるものとして扱いを受けたイスラエルを滅ぼすアッシリアの虚飾の栄光を滅ぼす火として述べられています。次のイザヤ書9章17節は、内側から喰いつくし、そこから突如抗しがたい破滅へと進んでいく、イスラエルの不信の堕落を具体的に示す例として述べられています。この神の審判の方法については、エレミヤ(エレミヤ書21章14節)も既に明らかにしています。

エゼキエルは、この火災による審判を、イザヤ書10章17節以下と同じ表象を用い、情け容赦のない炎が、イスラエル(南の地)の高慢な虚飾の中に燃え上がる様を描いています。

「青木も枯れ木も」という表現はヘブライ語的な全体を表す独特なもので、例外なしに絶滅の運命にさらされていることを明らかにしています。なぜなら、それは主なるヤハウエが火を放たれたからで、これを消そうとする者はひどい火傷をするだけで、そこには人間のいかなる力による救出力も働き得ません。

これらの表象を用い、預言者が自分の聴衆に向けて謎かけるために用いているのだとすると、6-10節は、隠されていることを取り除いて明瞭にするための言葉であるということができます。ここで隠されている告知を明瞭にする事を願っているのは、預言者エゼキエル自身です。イザヤの場合、自分に命じられたその言葉を解り難くさせる働きを反論せず受け入れましたが(イザヤ6:9,10)、軽薄な人々の嘲りを引き起こすであろう神の謎の言葉の内に、警告に反すれば受ける当然の報いを見ていました(イザヤ28:13,21,22)。

しかし、エゼキエルは、自分の言葉がどのような作用を引き起こすのか重苦しい心で受け止めていました。

主イエスの弟子たちは、イエスの譬え話の中に神の刑罰の意図を認めることができましたが、頑迷な大衆は理解する事が出来ません。イエスが譬えを語られたのはそのことを明らかにするためでありました(マタイ13:11以下)。

しかし、エゼキエルは、度し難いエルサレムの人々の事をあきらめ、一緒に捕囚とされた人々を神の決断の問いの正しい認識に至らせようと考えていましたが、それは不可能でありました。エゼキエルは、「彼はことわざを語る者にすぎないではないか」とその聴衆からあざけられ、無視される事に耐えがたい感情でこらえていました。エゼキエルは、自分に委ねられた人々の救いを常に意識する仲保者的預言者としてとどまろうとしていたのです。

ついに、彼の願いは、最初の言葉(1-4節)について、誤解のしようもなく解釈する神の言葉を告げるよう促されることによって、聞かれました。

6節の「顔をエルサレムに向け、聖所に向かって言葉を注ぎ出しイスラエルの地に対して預言せよ」の「注ぎ出し」という言葉は、ヘブライ語では「ヒッテーフ」で、元々は預言者が忘我状態で語る時の表現だと言われています。「垂らす」「流す」「吐き出す」という意味です。これはミカ書2:6,11とは対照的な用い方で、「吐き出す」とい侮辱的な表現ではなく、預言者の説教を豊かに力強く盛り上がらせるための表現であるということができます。

1-4節で裁きの手段が「火」で持って語られていたことが、8-10節においては、わたしの「剣」にとって代わっています。

1-4節の「青木と枯れ木」の表象は、民の全体が神の審きに例外なく引き出されることを指し示していましたが、ここでは「正しい者と悪い者(神なきもの)」に代えて用いられています。それは、神の裁きの恐るべき真剣さのために、どのような人間的抗議も沈黙せざるを得ない破滅的な重みを持つものとして語られています。エゼキエルはこのようにして、反逆の民に対して最終的な決着を描写する事が出来ました。炎は、神の裁きの火である故に、消すことができません(4節)。剣は、神の最終的決定を行うものであるがゆえに、鞘に納めることができません。

9節の主の剣が「南から北まで、すべて生ける者に向かう」という言葉は、全世界に及ぶ裁きの業を告げています。それは、イスラエルの試練と共にはじまる世界審判を指す表現です。

主の選ばれた都エルサレムが、その本来の持ち主である神によって絶滅される事は、「すべての生ける(肉なる)者」に対して神の栄光を啓示するためです。

イスラエルの没落に働くのは、実際に攻め滅ぼすバビロンではなく、神です。ヤハウエは、世界を支配する神です。その様な神として、地上の片隅に起こった事から諸国民の使命を推進せられ、彼らをこの地の真の主への服従へと呼び起こされました。ヤハウエの行動の普遍的な意義は、この裁きの告知の内に含まれています。この恐るべき徹底した破滅が、人によるものでなく、神の審きによるものであることは、この世界と歴史が神の支配の中にあるという信仰を生みます。そして、滅亡を味わい苦難にあえぐ者に、神に聞くことにより立ち帰りの道を示す、希望も明らかにしているのです。

旧約聖書講解