エゼキエル書講解

21.エゼキエル書20章32-38節「荒野での聖めるための裁き」

この段落は、1-3節との結びつきの中で記されています。エルサレム陥落の5年前、イスラエルの長老たちが、主の御心を問うためにやってきたが、「お前たちが尋ねても、わたしは答えない」という主の答えが示され、31節までの記述で、四つの時期に分けて、歴史に見られるイスラエルの主への反逆の罪を明らかにされています。その文脈の中で応えられた主の言葉として、今日の箇所が記されています。ここで尋ねてきた長老たちの企ては、イスラエルを他の国々の異邦人と同じようにするものであるとの告発が語られています。「諸国民のように」というこの表現は、サムエル記上8章と同じ表現がとられています。サムエル記においては、民が他の国々と同じように王を求めたのは、これまで神が王として君臨しておられるという神の王的支配に服する信仰の揺らぎを表す出来事として覚えられています。ここでは、イスラエルの選びに対する独自な主なる神との関係を放棄するような形で、彼らの意見が表明されたことを明らかにしています。

捕囚の民の希望、主なる神への信仰は、エルサレムの神殿と分かちがたく結ばれていましたが、これは、神殿礼拝を異邦の地の聖所で代用しようとの主張を表すものです。だから、お前たちは、「我々は諸国民のように、また、世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう」と言っている、という主の叱責の言葉が記されています。神殿礼拝を異邦の地の聖所で代用することは、故国への帰還の望みを台無しにすることでありました。そして、ヤハウエに対する礼拝を、異邦の神々と同列に置き、それらの文化に身を委ねることを意味していました。しかし、そのような彼らの願いは実現しない、ときっぱりと宣言されています。

主なる神は、その願いを実現させないことにおいて、ご自分が歴史を支配する生ける神であることを明らかにされます。バビロンの地でヤハウエを祭る祭壇をつくることは、神の民の歴史を真に新たにすることを不可能にしてしまいます。ヤハウエの導き覚えないなら、この民は旧来の道に戻ってしまうことになります。申命記26章5-10節に、次のようなイスラエルの自己理解を示す信仰告白文が記されています。

「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」

「強い手と伸ばした腕」とは、出エジプトの出来事において、主の救いを表すものでした。

しかし、ここでは「溢れる憤り」に結びつけられています。それは、救いではなく主の審きを表すものとして示されています。

かつての出エジプトに際して、主なる神は荒野で先祖たちに審きと救いを表せられましたが、それは約束に地へ導くための救いの御業として示されました。しかし、ここでは、故国を求めるバビロン捕囚の民を、「諸国の民の荒野に導く」と述べられています。主に逆らい、他の国々の民のように偶像の神を求める者を諸国に散らし、厳しい審きの下に置き、主の民から分離することが明らかにされています。その後で、全世界に散っているユダヤ人を連れ戻すが、彼らはイスラエルの地に入ることができないと言われます。しかし、この裁きにおいて、「お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」との約束が与えられています。

このようにイスラエルが荒野に散らされることは、審きの深刻さを示すものですが、その将来像は、ホセア(ホセア2:16-17)や第二イザヤに描かれている救いとは異なります。第二イザヤに描かれている荒野の遍歴は、乾いた地が楽園に代わることで、救いの神の勝利を永遠に記念するためのもので、神の特別な助けの啓示としての意味を持っています。

エゼキエルの場合、「エジプトの地の荒野」への追憶は、反逆の民に対して行われた神の刑罰の判決を思い出させるためのものであって、用いられた古い伝承はそのことを物語っています(出エ32:15以下、民数記11章、14:10以下、16:31以下、詩編106:7以下。これらの聖句はエゼキエルの影響の下に悔い改めの警告として用いられている)。

エゼキエルの新しい荒野滞在は、それとは対極をなしています。「諸国民の荒れ野」で問題にされているのは、バビロンのユダヤ人だけではないからです。ヘルマンは、荒野は移住および土地取得伝承に起源を持ち、終末論的な標語であると見なしています。ツインマリは、荒野滞在の地名は予型論的な概念の構成であると考えています。重要なのは場所ではなく、荒野の中でのイスラエルが他の諸国民とできるだけ離れていることです。そこで生ずる最終的な神の追及を免れ得ない現実は、羊の牧者の譬えで記されています(37節)。新たな荒野滞在は、清めふるい分けるためで、あらゆる汚れを取り去り、背信からきよめられた民だけがイスラエルの土地への道を見出すことになる、とエゼキエルは告げているのです。

エゼキエルは、こうして審きの神学概念を深化させ、第三の審きを展望しています。エルサレムとその神殿の崩壊という差し迫った裁きと並んで、滅亡を免れたすべての者に新たな時の通路として、きよめの審きが行われます。これまでの預言者が語りえた神の審きが、こうして未聞の方法で徹底されています。ここでは、イスラエルの歴史は救済史ではなく、罪の歴史として眺望されています。ヤハウエの救いは、神の忍耐の奇跡として現れます。しかし、それは、神の恩恵を悪用し、神から離れ、神の支配に服従を拒否する頑固な民にも惜しみなく与えられるのです。

だから救いの伝承はすっかり改められています。それは滅びの伝承となり、善を行うに無能な民と神の意志との絶えざる衝突がここに描かれています。38節において、「わたしはお前たちの中から、わたしに逆らい、背く者を分離する」という、これ以上厳しい判決が不可能だと言われるほどの判決が下されています。ここには祭司エゼキエルの完全な自由が、未聞の、恐るべき明瞭さで描かれています。

しかし、エゼキエルの歴史認識は全く新しいものではありません。それは先輩預言者たちが準備してきたものを完成したに過ぎません。イザヤは、背信の民を滅ぼすという主の審きを語り、ヤハウエをイスラエルの岩、ヤコブの力ある全能者として示しました。エレミヤは、善に向かう人間の無能を深くえぐり出し、罪に支配される人間の奴隷的意思を明らかにしています。エゼキエルは過去の厳しい審きにおいて一歩抜きんでています。

しかし、このような罪の歴史の暗黒面から、同時に、輝くばかりの聖さに満ちた光がこの民の神の上に降り注いでいます。神は憐れみと忍耐に富み、信実であって、その名のゆえに不可能を絶えず可能とされるお方です。救いの創造者である神をこのように見るところからは、神の審きの歴史は、結局、救いの歴史となり、来るべき救いの預言となります。主なるヤハウエは、ご自分の民とされたものを固く支え、その目的を民とともに達成しようとされていることを、絶対確実なこととして保証しておられるのです。

旧約聖書講解