エゼキエル書講解

16.エゼキエル書18章1-4節『人生の謎への神の答え』

人の身に起こった現在の不幸を、信仰の問題としても、生きることの意味を考える上でも、どう受け止め理解するかは重要な問題です。つまり、その受け止め方の違いが、個人として、民としての信仰の歩みを違った方向に歩ませることになるからです。主の民として選ばれたイスラエルにとって、国が滅びるという破滅的な体験は、信仰共同体としてのあり方を根底から覆すことになりかねない議論を呼び起こすことになりました。それは、神の義の歴史支配に対する懐疑という形で現れました。

預言者エゼキエルが、主の言葉に促されて、捕囚の民の間に広まっていた俚諺(りげん)(民間に伝わることわざの)に注意を向けた2節のことわざは、神がご自分の民を取り扱うやり方を、挑発的な仕方で指し示す意図を持って引用されています。3節において、この諺を口にする者を、二度とそれを口にすることができないようにするとの主の固い誓い、主の言葉が告げられています。

民が行ったこのあざけりの言葉は、主なるヤハウエを名指しする形で述べられたものではありません。しかし、これらの俚諺を語る民は、主なるヤハウエの支配についての根本的確信、主の報復として起こったと考えられる歴史の出来事の義しさの問題に関わることを語っています。その口ぶりには、主に対する畏敬の心が全く失われてしまったことをうかがわせるものでありました。それ以上に、神の支配に対する敵愾心に燃える批判を含むものでありました。もはや契約の神に対する信仰が消えうせる危機に瀕していました。この俚諺による神に対する嘲笑は、神の義に対する信仰を無意味化するものでありました。

完全に熟し切っていないぶどうは、口にすると酸っぱいものですが、それは爽快感を与える淡い酸味のゆえに好んで食されていました。しかし、歯を覆う薄い被膜の不快な感じが残るものでもありました。だから、熟さないぶどうを食べる者は、「歯が浮く」不快感を我慢しなければなりませんでした。しかし、そのぶどうを食さない者が、そのような不快な酸っぱさを味合わねばならないとしたら、それは理不尽な話です。民の間で広まっている信仰では、息子たちが父祖の咎の帰結を身に負わされるのは理不尽ではないか、という意味でこの俚諺が用いられたのです。咎ある者の代わりに、無辜(むこ)(何の罪もない)の者を罰することは、審判者である神にふさわしい処置と言えるのだろうか、という民の疑問がそこにありました。

この声は、王政末期に生じたイスラエルの信仰の根本的な変質を証言するものでもありました。イスラエルは、十戒において「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20:5,6)、と教えられていました。民の構成員は一人一人が孤立した仕方で存在するのではなく、それぞれが他の者に負いつつ互いに密接に結びついているという理解の下に、次の世代、時代の継起を超えた有機的な結合関係を有するものとして、イスラエルの民の信仰として捉えられていました。父祖の罪が子孫に報いられ、先代の犯した罪が後の時代を滅ぼしていくということは、やむを得ないこととして受け入れられていた信仰でありました。これまで、この信仰がイスラエルの将来への確信を危機にさらすことなどあり得なかったのです。

その信仰は、第一に、民の運命は主が恵み深く導かれることへの信頼に基づいていました。第二に、共同体に比べて個人の運命はあまり重要性を持たないという理解に基づいていました。この信仰の理解があったため、自身の直接の咎のためにではなく負わされた災いも、民全体の生との直接の結びつきのおかげで、比較的安易に受け入れられるものとなり、神の義に対する信仰を脅かすことはなかったのです。

しかし、前7世紀に生じた民の絆の内的な破綻により、民の個々人が、自分の生存の意味付けをしていた様々な保証や結びつきを失い、次第に孤立して行った時、事態は全く変わったものとなりました。民全体の生を危うくする国家の破局は、もう一度民全体の運命を引き戻す途が、もはや閉ざされているという考えを生じさせることになりました。

一方、すべての出来事の背後にあって事柄を決するのは神の介入であり、世界の法則による非情な結果等ではないとの信仰も残されてはいました。その信仰にあっては、国を揺るがす危機に脅かされた個人は、それを神の審判の出来事としてとらえ、「なにゆえ」と問わざるをえなくなります。正しい者が責めなき苦しみを被り苛まれることは、果たして神の義に適うことなのか、と。

この問いを初めて発したのは、エレミヤでありました(エレミヤ12:1以下)。しかし、エレミヤには、神の直接の答えは与えられませんでした。報いることにおいて保たれるべき神の自由のゆえに、エレミヤはそれ以上問うことを禁じられたのです。

エゼキエル書18章2節の引用の言葉は、エレミヤ書31章29節から取ったものです。エゼキエルは、エレミヤのその問いを知る者として、その引用をしています。エレミヤは、彼の問いを退ける神の拒絶に直面して、神の将来の救いの時に託す信仰から、信頼して従うことを学んだように、エゼキエルはその信仰から学びました。

ユダ王国の民の多数は、宗教的混淆の影響と政治的無力のゆえに信仰が揺らぎ、この俚諺に表された解き難い謎のゆえに、父祖たちの信仰から離れてしまうことになりました。神の義に対して、神が罪と責任を分配する仕方は正しくないと主張するにいたりました。

捕囚の民の大部分はこの考えに立つ者たちでありました。そして、自分たちはエルサレムに残った者たちよりもはるかに厳しい審きに服していると感じていました。本来、咎を負うべき者がそれを免れ、負う必要のない自分たちがひどい咎を負っているのは理不尽である、との考えからこの俚諺が好んで用いられました。

この民の非難に対し、エゼキエル自身も同じような運命にさらされた者として、それに抗弁していることを、覚える必要があります。ここに問題となっている主の審判は、彼にとって、神の義の問いに対し、いつどこでも当てはまる返答として弁護されるべきものではなかったのです。神の報いは、また別の道が神自身によって明らかにされており、それは神の報復の全体の脈略の中に織り込まれ、そこにはまた別の姿で与えられるものとしてありました。

神は創造者として、すべて人間の生を支配するものであることが4節の言葉の中に表されています。主なる神は息子を父の代わりにすることができ、その逆を行うこともできる自由を持たれるお方です。これに対して何人も神に対して釈明を求めることができません。人間のいかなる告発や義化する試みを凌駕する神の超越性は、ヨブの問題において見事に現わされています。

創造者にして超越の神こそ、その義なる意思を自由に知らせ、一人一人の責任を斟酌し判定されるお方です。「罪を犯した者、その人が死ぬ。」と言われるのです。

ここでは神の行為のすべての事例を説明する、新たな教えは何ら告げられてはいません。しかし、現在の状況に対する神の決断が告知され、それは、信仰の窮地に陥った者たちに助けを与え、新たに生きる力を与えるのです。エゼキエルは、それを、預言者として告知しています。

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