マラキ書講解

4.マラキ2:10-16『離婚-神の契約への背信』

この段落には、「結婚」と「離婚」の問題が扱われています。この段落のキーワドになる語は、「裏切る」です。この語は、神によって「契約」の対等なパートナーとして選ばれた、イスラエルの不誠実で信義を欠いた行為を表すのに用いられています。マラキは、エズラ・ネヘミヤによる宗教改革時代より前に活躍した預言者です。しかし、エズラの時代に問題になった、外国の女との結婚問題は、マラキの時代に既に顕著に見られていました。捕囚から帰った帰還民は、男性が多く、女性は少なかった。帰還した祖国イスラエルと都エルサレムには、パレスチナ人、エドム人(アラビア人)、及びアンモン人等近隣諸国民と共に、サマリアの支配層に属する多くの人たちが合法的に土地所有者となっていました。しかし、彼らは、主の契約の民でなく、異教の神々を礼拝していた人々です。だから、帰還した民が、祖国において自分たちが住まえるまともな土地は、ほとんどありませんでした。彼らが、そのような情況の中で、経済的に豊かに暮らして行くために、合法的に土地所有者となって資産を回復し、政治的立場も有利にするために、これら外国の女と結婚するものが、多く現れました。中には、最初の妻と離婚してまで、これら外国の女と結婚するものまで現れる始末でありました。こうして結婚した者たちは、上流社会の一員として認められる道を歩んで行きました。しかしそれは、異教の風習を受け入れる道であり、まことの神礼拝から遠ざかる異教化への道を歩むことに他ならないと、エズラやネヘミヤは厳しく断罪しました。

しかし、マラキは、エズラやネヘミヤと同じ視点でこの問題について断罪しているわけではありません。エズラやネヘミヤにおいては、祭儀改革そのものが、問題の中心に置かれていますが、マラキにおいては、神との契約関係から来る、民の本来の宗教的・倫理的あり方に、力点が置かれています。だからマラキは、結婚・離婚問題を前面に出しません。祭儀の問題も、前面に出されることもありません。

「唯一の父である神」、「唯一の創造者なる神」の子として選ばれ契約を結ばれたイスラエルのあり方を、先ず問題にします。イスラエルは、この神を父として持つことにおいて、その共同体は、「兄弟姉妹」としての関係にあります。兄弟への愛と義務は、ここから確立して行きます。だから兄弟への裏切り行為は、神と契約を結んだ「先祖の契約」を汚すことになると、マラキは説明します。

マラキは、異教の民との雑婚によってもたらされた異教的風習を、直接問題にしません。その意味で、11節後半から12節は、後代のユダヤ教の立場からの編集者による加筆だと言われています。マラキの基本とする視点は、1章6節の「子は父を、僕は主人を敬うものだ」にあります。そして、彼の批判・断罪は、民に直接向けるのではなく、彼らを誤った方向に導く宗教的指導者(祭司)たちに向けられています。だからといって、民には罪がない、などといっているのではありません。

神との契約を忘れ、契約において父子の契りを結んだ民同志が裏切りあっている現状を、マラキは嘆いているのです。「裏切る」という強い言葉で、マラキは民に向かって悔い改めを求めて語っています。

民の中に自分の最初の妻と離婚し、外国の異教の女と結婚した者がいました。その者が、まことの神ヤーウェを礼拝する神殿に来て、犠牲の祭儀を捧げていました。その時は、悔い改めの祭りでありました。マラキは、そのような情況の中で登場し、この預言の言葉を語ったのです。

「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムでは忌まわしいことが行われている」とマラキは、真実の悔い改めの心も持たないのに、悔い改めの祭りにこのように集まる民に向かって、この言葉を語っているのです。

しかし、民は、そのような矛盾した生活をしているにもかかわらず、宗教的な敬虔さをもって神に近づきます。13節にあるように、悔い改めのしぐさを行っていました。「泣きながら、叫びながら、涙をもって」、捧げものを持参し、神殿を訪れました。しかし、神は真の悔い改めを表さない、兄弟を裏切る者の捧げ物に見向きもせず、これを受け入れない、とマラキは言います。

裏切る者は、「畏れ」を持ちません。畏れのない言葉を平気で語り、畏れのない行為を平気で行います。「畏れ」とは、神との間では、具体的には「契約」に対する恐れです。その契約とは、「律法」です。律法の「言葉に聞く」ことから、真の「畏れ」は生れます。だから、契約を破る者、裏切る者が、真の恐れを持って神に近づくことはあり得ません。マラキは、このことを指摘しているのであります。

マラキは、そのことを実際の行動に照らして指摘します。契約に対する真の畏れのなさが、「傷ついたり、病気の動物」を平気で捧げ、形だけの礼拝を生みます。同様に、兄弟を裏切り、悲しませて、形だけの悔い改めの礼拝を守ります。しかし、そのような「献げものが見向きもされず、受け入れられない」と、マラキは告げるのであります。

14節の「あなたたち」は、ヘブル語では単数形となっています。マラキは、一人一人に、個別的にそのあり方を反省し、悔い改めるよう、呼びかけているのです。「若いときの妻」は、「最初の妻」という意味です。最初の妻と離婚し、自己の利益のために異国の女を妻に迎えるということより、最初の妻と離婚するそのことが何よりも非難されています。それは、最初の妻との結婚の証人に、神ご自身がなられたからです。その離婚を神が憎む理由は、証人であるご自身を裏切り、神の民であることを否定する行動となるからです。

16節では、「離婚する人は、不法でその上着を覆っている」と厳しく断罪されています。「離婚」は契約違反です。この言葉はまた、神とイスラエルの関係に当てはまります。神は、イスラエルの妻でもあります。イスラエルは、妻である神と自らの行為によって、離婚状態となっています。その離婚状態の生活をしていながら、夫婦の「交わり」に擬せられた「礼拝」を守る意味は、もはや存在しません。それは、偽善以上に、へどの出る「裏切り」以外の何ものでもありません。この神の倫理的な求めから、礼拝のあり方、社会生活の在り方を考えよ、との神の言葉は、今を生きる私たちにも、悔い改めを求めて、強く迫ってきます。

旧約聖書講解