アモス書講解

19.アモス9:1-6『不可避な神の審き』

9:1-4の第5の幻は、第1から第4までの一連の幻の終わりの部分に当たり、その頂点をなします。これまでの幻体験において、アモスは、神の審きが不可避であるとの確信を与えられました。そして今や、この第5の幻において、審きが如何なる仕方で到来するかについて語ります。かくして、この幻は、アモスの審きの預言の最終的前提をなしています。アモス書は1章2節において、「彼は言った。主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は渇き、カルメルの頂は枯れる」という告知をもってアモスを登場させていますが、そのアモスの召命の確信とその預言の前提として、この幻における主との出会いにおける確信があります。

アモスにその確信を与えたのは、聖所において現臨の主を見る体験でありました。イザヤの場合も神との出会いは聖所の中で起こりました(イザヤ6:1)。アモスが神と出会った聖所がどこであったか何も語られていませんが、多分エルサレムの神殿であったでしょう。この神との出会いは、アモスが預言者として召される以前における出来事と思われます。アモスはこの出会いにおいて、イスラエルの民に対する審きの最終的確信を与えられ、自らの審きの告知の前提とすることができました。

それゆえ、「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た」というこの言葉は、アモスの預言者としての召命に決定的な出会いを明らかにしています。しかし、ここには神の形姿については何も語られていません。神の形姿と本質は人の目に隠され、神秘に包まれています。預言者がその視覚を通して体験したのは、自らの宗教的恍惚や没我的陶酔ではありません。神は歴史と自然の中に介入される行為者であり、神が顕れる所、そこでは何かが生起する、ということをこの言葉は記しています。

この時アモスは、足下で揺れ動く敷居の振動を感じました。そして、「柱頭を撃ち、敷居を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け」という主の言葉を聞きました。この敷居の振動は、アモスにとって、神がすべてを滅ぼすために起こそうとされている巨大な地震への暗示となりました。

続く主の言葉は、その地震から免れ、命を保った者も、誰一人逃げおおせる如何なる可能性も存在しないことを告げています。地震からまぬがれた者は、剣に倒れ、そこから逃走しようとする者は、どこまでも主の手が伸びて捉えられ逃れることは出来ません。

ここには神話的な表象が用いられています。地下(陰府)は異なった神々が支配する領域であると考える民間信仰がありました。それゆえ、そこは怒りを発する神から逃れる最後の逃れ場であると一般の民は考えたかもしれません。しかし、神の力には如何なる限界も存在しません。それゆえ、この可能性も否定されます。同じように、天すらも、そこに神の審きを逃れるのに十分な高さとは言えないことが明らかにされます。

1章2節において、「カルメルの頂は枯れる」という言葉をもって、アモスは諸国に対する審きを告げる言葉を語っていますが、9章3節で「たとえ、カルメルの頂に身を隠しても、わたしは、そこから探し出して連れ戻す」といわれています。この主の顕現における告知が、アモスの預言の確信を与えた一つの証左となっています。山の頂も海の底も、神の目からまぬがれる場所とはならないことが、徹底して語られています。

人間の行動のすべて、その信仰と不信仰とは、神の目に留まり、明らかにされています。そしてすべては神の眼差しと攻撃に対して裸であります。海の底は、イスラエルの信仰において、おどろおどろしい世界です。人の命にとってもっとも危険な場所と考えられていました。神の創造は、この危険なところを人から遠ざけ、安全な場所に人を住まわせる恵みとして配慮されていました。しかし、神に背を向け罪を犯す人間は、神の審きを逃れて自己保身するために、そうした危険の深みに身を隠し逃れ得る可能性をどこまでも追求しますが、神の支配と審きの手はそのようなところにも及びます。そこもまた民を滅ぼすための神の道具として、神の指揮下にあります。

ついに、敵国、すなわち異教の神々の領土への連行をも、「救い」の最後の可能性として人は考えるかもしれませんが、それとても主の力にとって何ら障害とはなりません。異邦の諸民族と彼らの武器もまた、主に支配されているからです。ヤーウェは歴史の主であると同時に、自然(世界)の主でもあるからです。

それゆえ、主の審きは、罪ある民にとって逃げ道のない徹底的殲滅を意味していました。これらの言葉が告げるのは次の事実です。人は、審く神の恐るべき現実から逃れようとするあらゆる試み、それを考えることすらも、遮断されている。それらの試みはすべて、神の全能、偏在、全知によって水泡に帰せしめられるということです。

この預言者と神との対話は、民について3人称で語っています。このことは、この認識がまず預言者個人に生じたことを示しています。そして、終わりになって、神の言葉は聴衆自身に向かって語られます。それは、聴衆に直接向けられた威嚇の言葉となります。それゆえ、「わたしは彼らの上に目を注ぐ」という4節の言葉は、主の臨在による民への配慮の言葉として語られたのではありません。この場合、民に注がれた神の眼差し、神の現在は、救いへ、ではなく、滅びへと通じています。「それは災いのためであって、幸いのためでない」という最後の言葉は、この事実を決定的に明らかにしています。

アモスと神との出会いの究極の地点に、神が立っています。そしてそれが審きの告知において示されているゆえ、ヤーウェの審きは避け難く逃れ得ぬ現実であることが意味されています。この出会いこそ、アモスにとり、彼の全預言活動の根本動機となった啓示の出来事でありました。アモスが何故、神の審き徹底して語る預言者となったのか、その理由は、彼の性格が人を裁くことにあったからではありません。この一連の幻の体験が、神が自分を神の審きを告知する預言者として召し出されたのだ、という召命感を内的に準備することになった、という道程を示しています。それが神の意志であるから従うのです。神の言葉の権威は、その権威の下に聴従する預言者によって取りつがれます。

このアモスの言葉に、慰めを見出すことは難しい。しかし、神の言葉に聞かない者に向けられる神の現臨の審きは、裏返しに見れば、悔い改めて神の言葉に聞き、現在の苦難を堪え忍ぶ者には大きな慰めでもあります。神が、審きにおいて現臨し、不信仰の者をどこまでも追い、見つけ出して審く方であるなら、反対に、悔い改めて神への真実の信仰に生きる苦難の中にある民と、どこまでも共に居ます方であることを同時に告げているからです。

9章5―6節は、ヤーウェへの頌栄歌であるといわれています。そして、これはアモスに由来するものではないといわれています。これは神の現臨を告白する教団の告白であり、神の審きの言葉の前にひざを屈めている教団の信仰告白の言葉であると言われています。ここでは地震による審きの威嚇が賛歌に変わり、ナイルの増水とエジプトの沈下の描写によって神の力が称えられ、神の審きが正当であることが告白されています。

これらの言葉は、捕囚を経験した民が、自らの悲惨な現実を、神の言葉を聞かなかったことにあると真摯に反省し、悔い改めと従順の畏敬の内に、創造者を仰ぎ見、世界のはじめと終わりを握っておられる、世界の主の至高の尊厳をたたえている頌栄歌です。

このように審きに直面しながら、神の偉大さを称えることを可能にしているのは、強固な無私の神信仰です。危機の下にある人間が、希望を持って立ちあがる力は、神への揺るぎ無い信仰から生れます。その信仰とは、創造者にして主なる神を崇め、この神に完全に自己を没入し、世界の出来事においては人間の目標や願望が重要なのではなく、創造はただ神のためにあるのであり、世界の生起と滅びとは、究極的に神の目的に仕えるものであり、これに対して人間はただ畏れをもって従うのみである、というものであります。この信仰がいつの時代にも求められております。イエス・キリストにある復活と希望の言葉は、この信仰において、はじめてその真実の意味を理解することができます。

旧約聖書講解