アモス書講解

6.アモス書3:9-15『サマリアの滅亡を告げる三つの預言』

ここにはサマリアの滅亡を告げる三つの短い預言が集められています。それは、①暴虐に対する審判(9-11節)、②イスラエルの「救出」(12節)、③商人たちに対する審判(12節後半-15節)に分けられます。

 

①暴虐に対する審判(9-11節)

この預言は、「使者のことば」の形を取ってなされています。「アシュドド」は、七十人訳聖書では「アッシリア」となっています。アモスの時代アッシリアの勢力は一時衰退していたので、ヘブル語聖書の読みを採用すべきであるとの意見があります。アシュドドも全盛期にはペリシテの五大都市連合の代表でありましたが、アモスの時代にはガザが指導的地位にありましたので、七十人訳の読みを支持するものが多数います。ここでは七十人訳の立場に立って説明します。

預言者はアッシリアとエジプトの二大国に、サマリアの町での生活と騒ぎの視察のために公的な招待を出すことを、聴衆に求めています。ヤロブアム2世が治めていたころの北王国の政治的・文化的な隆盛は、経済的繁栄と生活向上への要求を増大させることになりました。この時代の平和と繁栄が、都市に住む文化人層を生み出しました。彼らは指導的な権勢者の鼻息をうかがいながら、経済的繁栄を享受していました。その一層の生活の向上だけを願って生きる富裕層に向かって預言者は語っています。預言者のことばをはじめて耳にした時、彼らは預言者が自分たちの自負を認めてくれたと浅はかにも信じました。アモスが逆説的な意味で語っていたことに気づかなかったのです。

このうぬぼれに満ちた雰囲気の中で、アモスは青天の霹靂のごとく、「彼らは正しくふるまうことを知らない」と断罪のことばをぶつけました。アモスは情け容赦なく、この似非文化の虚妄をあばきます。二大国から来る使者に誇らしげに見せることができると信じていた宝物が、実は「不法と乱暴」によって手に入れた物以外のなにものでないと、アモスは断罪します。その繁栄は、圧迫と不正によって築かれたものであったからです。だからこの豊かさの中身は、貧困でしかなかったのです。

アモスの批判をピューリタン的な都市文化批判であるとする見方がありますが、それは間違っています。また、農村からの都市文化に対するジェラシーから生まれた批判であるとする見方もありますが、それも間違っています。アモスは、究極的なところから事柄を見ています。当時の都市文化人=貴族は、自己のみを配慮し、人間的な権勢欲に生きていました。そうした思いに支配された生き方は、神の力と神の求めに応じる感覚は死滅してしまっている、とアモスは見ています。この自己満足的なうぬぼれの土壌においては、神と御心に適った関係を築くことは不可能である、との認識をアモスは示しています。利己主義と虚栄は人間を盲目にし、神と隣人に対する本来のあり方への感覚をも、霊的な視力をも失わせてしまいます。

「彼らは正しくふるまうことを知らない」という断罪のことばは、それと正反対の事柄を指し示します。アモスにとって、神こそがどう生きるかという生の要求者であり、全生活の中心にいます。自分の生の主人は自分ではなく、神です。「主なる神が語られる 誰が預言せずにいられようか」(8節)という、預言者としての服従の姿勢は、言葉に対するものだけでなく、言葉の命じる内容を含みます。服従において神を神とする、全生活における神を神とする告白が主の民に求められていたのです。しかし、民は、どこまでも自己中心で自己の利益だけを求めていました。それは、どこかが間違っているというものではなく、その生そのものを建て上げる発端から間違っているので、はじめから正しい行為へと至りうる道が存在しません。神に聞く、という基本を忘れた生は、自分では神の民と思っていても、神なき無神論者としての生となっています。神なしに、あるいは神と並んで、自らが何者かであろうと欲する者はすべて、滅びざるを得ません。それゆえ神は、自らを神なき者としたものにふさわしく、彼を神なき者として滅ぼされることを、アモスは語ります。

11節は、視察に招かれた二大国との関連から、戦争による破局が考えられているのかもしれません。預言者は、人間の力は人間の力によって破られるという歴史の法則を承知しています。しかし、それ以上に、その歴史の背後に、歴史の主として主が立っていることをアモスは知っています。歴史を究極において支配しているのは人間や民族の力ではなく神です。だから、アモスにとって審きは、単に人間の罪に対する何かの罰というものに止まることはありません。神をないがしろにし、自己のみにおいて何者かであろうとする、あらゆる人間の力に対する神の力の現実化にほかなりません。都市の繁栄それ自体が悪なのではありません。むしろ繁栄は神の祝福ともなり得ます。しかし、それに酔いしれ、神のことばを忘れた自己願望の実現にのみに走る、その心の出発点が破局を招く原因であり、実際的無神論にほかならないと指摘するアモスの洞察は深い。身を引き締めて誰もが聞かねばならないことばです。

 

②イスラエルの「救出」(12節)

この短い預言は、アモスの審きの預言に、来るべき審きにおいてイスラエルは救われるのだと救いを主張する反論に対して、アモスの再反論としてなされたものです。しかし、アモスは辛辣な皮肉をもって民の「救い」を語ります。救いに括弧を付けたのは、その救いには特別な留保があるからです。それは、救いという名に値しない救いであるからです。かつてここから、イスラエルの「残りの者」の救いを読み取る解釈がなされたこともありますが、ここで述べられていることは、むしろ、そのような可能性の否定する内容です。

ここに譬えられているのは牧者の生活の一こまです。羊飼いはその所有者から羊の飼育を任されています。その際、不慮の事故に巻き込まれることがしばしは起こります。突然の獅子の襲撃は、羊飼いにも防ぎようがありません。しかし、不可抗力によって家畜を失った場合、羊飼いは自分に責任のないことを証しするために、助け出すか、食いちぎられた家畜の体の一部を持ち帰らなければなりません。そうすることによってのみ、羊飼いは弁償の義務を免れることができました(出エ22:12)。したがって、「救い」出されたわずかな部分は、家畜の死の証明でしかなかったのです。羊飼いは、身の潔白を証明するために家畜の部分を「救う」ように、まさにイスラエルの審きにおいて「救い出される」のは、そのような姿においてである、とアモスは辛辣に揶揄しています。

アモスは救いという言葉を逆手にとって、そもそも救いという言葉を語り得ない状況にあることを、この言葉を適用して語っているのです。その皮肉の背後には、神の審きに対する絶対的な確信、神の真実に対する信頼があります。その確信に立って、アモスは民衆の俗信に真っ向から対決し、その虚妄を根底から打ち砕きます。獅子という恐るべき力、その避け得ない突発性と残虐さを譬に、アモスは神の実在する恐るべき審きを語ります。心鈍い民に神の滅ぼし尽くす審きを預言者は告げねばならなかったのです。

 

③商人たちに対する審判(12節後半-15節)

この預言は内容と形式において、9-11節と類似しています。ここで指摘されているのは、サマリアやダマスコに自分たちの土地や豪華にしつらえられた別荘を所有し、そこで季節によって生活し、あるいは商売上の往来に際して立ち寄り、贅沢な生活を送っている商人たちのことです。商人たちは、サマリアに冬の家、夏の家、象牙の家を持って豪奢な生活をしていました。

特にここでの批判は、半遊牧民であるアモスの、都市の定住生活の堕落した贅沢な暮らしぶりに対する嫌悪とピューリタン的非寛容に由来する、とアモスの人間的限界を見て文化史的預言解釈をとる学者が多くいます。しかし、その様な批判は①の部分で述べた通り当たっていません。アモスは富そのものを否定しているのでも、豊かさを享受することを否定しているのでもありません。自ら手に入れた資産が、身の安全と自分の将来を保証してくれると安心しきっている彼らの姿は、彼らの没落と消滅という審きを通して、神なしで平安を得ようとする人間、得られると考える人間の愚かさを明らかにすることを、アモスは告げます。その様に彩られた生の愚かさを証明する証人としてアモスは立っています。

何人も神から逃れることはできません。神を避ける人々も神に仕えねばなりません。彼らは、皮肉にも自己の没落を通して、神の力と預言者を通して語られた神の言葉が、真実であることを証しする証人となります。

14節のベテルの祭壇への言及は分脈のつながりが弱いので、後の編集者による挿入と思われます。

アモスはここでも徹底した神の審きを告げます。実際的な生き方において神を否定する人間は、やはり目の前における富に目を奪われます。そこには、自己の存在を究極において成り立たしめる神を、腹の中心に据えて生きない人間の問題があります。それは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)という、主イエスのことばを想起させます。神の配慮を信じ「何よりも、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて与えられる」という主イエスのことばを現実の生のただなかで信じるかどうかが、わたしたちが神に生きる者なのか、そうでない無神論者と変わりない者なのかを決めていくことになります。その意味で、この審きはわたしたちにも向けられていますが、新約時代のわたしたちには、必要なものはすべて「与えられる」との主イエスの約束が強くこだまし、大きな勇気を与えられています。しかし、神の審きを軽く見るものには、その福音の言葉にも真剣に耳を傾けることができないという、警告がアモスの言葉にあります。

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