ホセア書講解

23.ホセア書11章1-11節『不変の神の愛』

本章は、旧約聖書の中で、神の愛について最も美しい言葉で語られているところである。ホセアの神理解は、自らの結婚生活の内的体験を通して深められた。神は、預言者ホセアに淫行の女ゴメルをめとり、その姦淫する女を愛せよとの命令を与えた(1,3章)。それは、神から与えられた約束の土地でバアルを礼拝し、大地の実りを主からの恵みとして受け取らない、イスラエルの背信の罪に対する神ご自身の苦しみを預言者に味わわせて、その苦悩の中で愛し続ける神の恵みの偉大さを知らしめるためであった。イスラエルは、神の約束によって与えられた大地を、バアルの妻としてしまっていた。イスラエルは、それによって自らを姦淫の妻としてしまっていた。しかし、3章においてホセアに姦淫する女ゴメルを愛せよと命じる主は、その罪に対する裁きを行なっても、なおイスラエルに愛をもって回復する不変の愛を語っている。

本章において示される神理解も、3章に見られるように、その妻を赦して教導する、強い愛の働きによって、規定されている。

本章は、次の四つの部分に区切ることができる。1-4節は、父の比喩で神の愛に満ちた護りと民の忘恩が語られ、5-6節は罰について、7-9節は神の愛の勝利について、10-11節は神の愛の結果としてのイスラエルの回心と救いについて、語っている。

 

①神の愛と民の忘恩(1-4節)

神の愛を主題としたこの詩は、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した」という言葉で始められ、神がモーセによって民をエジプトから導き出された時代を回顧することから始められている。ホセアは、主とイスラエルの特別な関係の始まりを、荒れ野時代のうちに見る。そして、ホセアは、ここでは1,3章とは異なり、イスラエルに対する神の愛が、子に対する父の愛として語る。1節後段の「エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」は原文に忠実に訳せば、「エジプトからわたしの子を呼び出した」となる。神は、イスラエルをご自分の民として選び、エジプトから救い出されるのであるが、これは、イスラエルが神の子となるためではなく、神の子であるためである(出エ4:22,申14:1,エレ3:19)。そして、マタイ福音書は、エジプトからの少年キリストの帰還について、この言葉を引用している(2:15)。

こうして預言者ホセアは、イスラエルの歴史の出発点には、神の愛があり、出来事に計画と意味を与える神の呼びかけがあることを示す。

しかしながら、神の呼びかけは、一度だけではなかった。神は、歴史の中で、繰り返し預言者を通して民に呼びかけられたのである。2節の言葉は、この度重なる神の呼びかけにもかかわらず、民は主の愛を無視し、主から遠ざかり、バアルに犠牲を捧げ、偶像礼拝に身を委ねたイスラエルの罪が、語られている。

しかし、主は、何も与えないバアルとは異なり、背信のイスラエルに対し、怒りを示すことなく、寛大な父親がその子に歩むことを教え、子が疲れたなら、腕に抱きかかえるように、ヤーウェは生まれて初めて歩く子を助け、傷つき、病むとき、これを癒してきたのである。神は、人間の父親が乳飲み子を頬ずりするように愛撫し、その上に屈み込んで、必要とするものを配慮された。やさしさと深い感受性に満ちた神を、ホセアはこのような言葉で表現する。頑固な民を、あくまで自分の所に引きつけておこうとする、思いやりに満ちた父の愛で臨む神を、ホセアは描く。しかし、これほどまでにやさしく愛してもらっても、イスラエルは、神の愛に気づかないでいた。

 

②罰(5-6節)

鈍感なイスラエルに対して、神の愛は、何の効果も及ぼさなかった。そこで神は、イスラエルを罰せずにはおれなかった。それが契約であったからである。神の愛は、どこまでも契約への誠実において表されるもの、であったからである。民はヤーウェに背き、立ち返ることを拒んでいるために、その代償として、自由と生命とを犠牲にする、これが契約において明らかにされていた。しかし、その裁きは、民の罪にふさわしいものであった。民は、自分たちの救い主と思い込んで結んだ契約の当事者が、かえって審判者となり、専制君主となったのであった。それが、エジプトとアッシリアであった。町々には戦いが荒れ狂い、民の精鋭も滅ぼし尽くされる。それは、彼らのわがままな政策の、むごたらしい結果に過ぎなかった。それをホセアは、絶えず主の意思に反するものとして訴えていたのであった。イスラエルが主を頼らず、他国と同盟を結んだことは、かえって滅亡の原因となった。「たくらみのゆえに滅ぼす」(6節)という言葉が、すべてを語っている。イスラエルの主への信頼の欠如が、裁きの原因であったことを明らかにしている。

 

③神の愛の勝利(7-9節)

罪の最も恐るべき力は、善をなす力を麻痺させ、神に帰る道を見出せなくし、その恐るべき力に呪縛されることである。その結果、たえずバアルに帰って行き、ヤーウェが、その教え導く愛によって民を助けようとされることを、不可能にすることである。民は、悔い改めの力を失っていた。罪を認識する力も失っていた。その絶望的な状況から民を回復できるのは、神の愛しかない。主は「わが民はかたくなにわたしに背いている」とその罪を指摘する。民がおかれている、救いなき状況を示す。「天に向かって」とは、主に向かって、という意味でない。彼らがとらわれているバアルに向かっての叫びである。人間の願望、自然現象の投影、説明として要請された神バアルに、人間に答える耳はない。人間を助ける手もない。だから、危機にある人間を助け起こすことはできない。バアルに従う限り、民には救いも希望もない。だから、彼らは、神に立ち帰ることができないでいる。まだその心が、バアルに縛られているからである。しかし、神は、この哀れむべき民を覚えている。民が神を忘れても、神は民を忘れない。神はなおも、民を愛し続けている。神の契約の愛(ヘセド)は、民の罪によっても揺るがない。この愛にこそ、真の希望、救いがある。

「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。」この神の不変の愛こそ、イスラエルを滅亡から救う原動力である。わが子を思う変わらぬ父親として、神は、イスラエルを愛し続けた。イスラエルを見る、神の不変の愛のまなざしが、イスラエルを救う。

神がイスラエルに行なう審きは、捨て去ることではない。イスラエルの崩壊は、ソドムとゴモラの滅亡と同じように語られている、アドマとツェボイムの破滅とは、異なる。申命記29章22節には、ソドムとゴモラといっしょに滅ぼされた町として、アドマとツェボイムの町の名が記されている。ホセアは、この二つの町の名だけを挙げ、神の恐るべき審判を想起させる。しかし、イスラエルを「見捨て」そのような町の「ようにすることができようか」といって、神の苦悩を語る。

主は、アドマとツェボイムを滅ぼしたときは、ためらわなかった。しかし今、イスラエルのためには「わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」といわれる。神が望んでおられるのは、罪人の死ではなく、生きて神のもとに帰ることである。神が裁きについて語られるときにも、そこには既に、愛の憐れみが働いている。

神の心は、人間のように烈しい怒りを積み重ねてはいない。神の内部においては、滅ぼし尽くそうとする灼熱した「怒り」が、温かい憐れみに変化してきており、そのため、たとえ審きが行なわれているときでも、審きが究極の動機となって滅ぼし尽くすことが意志されているのでなく、愛が支配しているのである。神はその愛をもって民をいつも愛してきたのである。

「わたしは神であり、人間ではない。/お前たちのうちにあって聖なる者。/怒りをもって望みはしない。」(9節)この言葉には、人間とは異なる神の愛の本質が語られている。神は予想も理解も越えて、人間には思いもよらない愛から行為される。人間の目には、審きの厳しさと、求め導く愛とは、対立するものとしか見えない。しかし、神の怒りは、神の愛をなくしてしまうものではない。ヤーウェは裁く神であると同時に、助け救う神であり続けるのである。この点が、人間と根本的に異なる。人間は背く者、敵対する者を、最後まで愛することができない。しかし、神は、背き罪を犯し続けるわたしたちを愛し、赦し、救う方である。この神の不変の愛に、救いの希望がある。

一般に、旧約聖書において、神の聖性は、神の近寄りがたい荘厳さ、超越性を意味する。しかし、ここでは、神の聖性に独自の光が与えられている。ホセアにとって聖なる神の愛は、神の怒りと共に、その場の雰囲気や気分によって支配されない。どのような状況にあっても、常に等しく、不変的な、神の教え導く意志である。それは、歴史の究極の意志である。身をかがめて養う(4節)神の謙りにおいて表される愛、無限の赦しにおいて、神はその聖性を貫かれる。神の愛は、何事にも作用されないことにおいて、完全で、すべてに勝利される。この神の勝利の力は、イエス・キリストの十字架の贖いにおいて、究極において、表されている。

 

④イスラエルの立ち帰り(10-11節)

神は、一切を克服する愛において、ご自身を啓示し(9節)、神の子とされているイスラエルの将来を示す。ホセアは、神が意図されているその啓示の結果について語る。それは、イスラエルが自らの力で為し得なかったことである。それが、神の愛の告知によって成し遂げられる。すなわち、ヤーウェへの民の立ち帰りである。

「獅子のようにほえる主に彼らは従う」といって、ヤーウェは、子どもを呼ぶときにほえる雄の親獅子に譬え、遠く捕囚の地にいるご自分の民を呼び出すことをさして、こう語っている。四方に散った民は、力ある神についての印象に打たれ、その愛の深さを知って、小鳥のように急いで帰ってくる。このようにして、イスラエルは、ヤーウェが彼らの神であり、助け主であり、保護者であることを知るようになる。イスラエルが、神の保護の下にあることを本当に感じるのは、それぞれの家に住まわせられるときである。家に帰り、慈愛に満ちた父が居る家、そこには平安があり安らぎがある。神は、そのように立ち帰るイスラエルに、平安を与える。

ホセアの描く終末の像は、具体性に欠けるという指摘がある。しかし、ホセアにとって重要なのは、どのようにそれがなされるかということではなく、それがあるということである。神が、その選びと救いの計画として、当初から目指されていた所へ、民を導き出され、その教え赦す愛が、罪を克服して勝利を収め、その結果、民が神の許へ帰ってくる、そこに約束の重点がある。そして、ホセアには珍しい、「主はいわれる」という締めくくりの言葉で、それが確認されている。

ホセアは、姦淫の妻ゴメルとの自らの結婚生活の体験を背景にして、神の愛の勝利を告げる。人を罪から救うのは、人間でなく、神である。神の愛である。それは、「わたしは神であり、人間ではない」という、人間の愛を越える神の赦しである。ホセアは、この神の赦しを知り、苦悩から姦淫の妻への不変の愛に生きることへと、変えられた。この告知は、ホセアの体験と分かちがたくなされている。

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