エレミヤ書講解

49.エレミヤ書31章27-30節『終末の日における裁きと救い』

エレミヤ書31章27-30節の二つの詞は、イスラエルとユダの家に関する終末的な預言です。「見よ、・・・日が来る」という終末預言の定式が用いられていることが、そのことを示しています。主は、エレミヤに、諸国民に対する預言者となる権威を委ねられましたが、彼に与えられた使命は、「抜き、壊し、破壊し、あるいは建て、植えるために」(1章10節)というものでありました。エレミヤはこの使命を自覚し、主の前に悔い改めないで罪を犯し続ける民に、「抜き、壊し、破壊する」主の審判を告げてきました。そして、審判に服し捕囚とされた者には、主による新しい救いの発端を明らかにする手紙を書きました。

そして、ここでは、終末の日に表わされる希望の言葉が明らかにされています。それは、「かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている」(28節)という主の言葉において示されています。

10-26節の学びを省略しましたが、終末の日に表わされる「建て、また植えようと見張っている」主の回復の恵みは、羊飼いとして、主が再びイスラエルを集め守られるという形で訪れ(10節)、「その魂は潤う園のようになり」(12節)、「嘆きを喜びに変える」(13節)出来事として起こるといわれています。そして、その「未来には希望がある」(17節)といわれています。懲らしめを受けたエフライム(イスラエル)は、「かけがえのない息子」(20節)として主の愛を受けるといわれています。どのようにしてその愛に与るか、それは、祖国への帰還が実現することにおいてであるといわれています。そのために彼らがなすべきことは、21節の主の呼びかけに従うことであるといわれています。イスラエルのなすべきことは、彼らを再びわが民として救おうとされる主に心を向け、道しるべを立てて、主によって用意された広い道を通って帰っていくことです。彼らのために、「主はこの地に新しいことを創造される」(22節)のです。このように、終末の日になされる救いは、新しい創造として、主の恵みとして与えられることが明らかにされています。その救いが実現する日、イスラエルは繁栄を回復し、正義の住まうところとなり、「疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」(25節)主の救いに与る者とされるという慰めが語られています。

「今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている」という主の呼びかけは、これらの言葉と共に理解することが大切です。この呼びかけを受けたとき、彼らの帰るべき地は、破壊されて人も少なくなっていて、土地は荒れたままで、いつもそこにいた家畜の群れや羊と山羊の群れは大多数死んでしまいました。しかし神は、その休閑地を掘り起こし、その地に再び人と獣を住まわせ、地はその両方が満ち、賑わいを取り戻すようになるといわれます。そのわざは、「とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」(3節)といわれる恵みによって成し遂げられます。

しかし、捕囚の民には一つの懐疑に陥っていました。それは、捕囚が彼らの父たちの世代が犯した罪、またその先祖たちの罪に対する審判であることは、よく理解できました。その罪と関係ない世代が、その罪の連帯責任者としてその責任をある期間負うべきことも了解することができました。しかし、それをいつまでも負わねばならないという単純化された議論に納得できない、という声が捕囚民の間で広がり始めていました。29節に見られる
先祖が酸いぶどうを食べれば
子孫の歯が浮く
という格言を用いて、神の裁きのあり方に対する人間の不満が表明されました。これと同様の格言を用いた不満の誤りを正すエゼキエルの言葉がエゼキエル書18章2節以下に記されています。エゼキエルは、その議論の正しくないことを述べていますが、そこで、人は主の前に罪を犯さず主の正義と恵みに生きるならば、正しい人として扱われ、「必ず生きる」という主の言葉を告げています。それでも自分の罪を認めず「主の道は正しくない」という者に、エゼキエルは、「わたしの道は正しくないのか」という主の言葉を示し、「正しくないのは、お前たちの道ではないのか」と問い返し、「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル書18章31-32節)という、悔い改めを求める主の言葉を示しています。

「人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」(30節)というこのエレミヤ書の言葉も、エゼキエルの言葉と同じ主旨で述べられています。

主イエスから目を開かれた元盲人に対して、主イエスは、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネ9:39)といわれたことに、ファリサイ派の人々は、それが自分たちに対する批判であることに腹を立てて、「われわれも見えないということか」と食ってかかりましたが、その時主イエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)と告げておられます。

主の裁きがなされる終末の日、自分の罪を認めようとしない人間の見える目は、見えない目にされます。「人は自分の罪の故に死ぬ」ことが明らかにされます。しかし、主の御業は、主の言葉を信じ、主に従う者の目を開くという形で表わされます。悔い改めとは、主の言葉に従って、主の正義を喜び正しく生きることです。そのように導かれる主を信頼して生きることです。自分の正しさを主張し、「主は正しくない」と主張する目は、既に盲目の状態にあります。それでも自分は見えると言い張る人間の高慢の問題を、エレミヤもエゼキエルも指摘しています。このことの注目する必要があります。その心が主によって新しくされる必要を強く覚えさせられます。

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