マラキ書講解

序.著者・時代

マラキ書の名は、3章1節の「わたしの使者」(マルアーク〈使者〉の1人称単数語尾がつけられた形、ヘブル語の発音ではマルアーキー)から取られたと考えられます。これは人名としては不自然なので、70人訳聖書では、これを「主の使者」と読み替えています。マラキの名が特定の人物を指すとみなす学者は、今日ではほとんどいません。

マラキが、特定の人物を指していないとするなら、彼がいつの時代の預言者であるかは、この書の内容から把握する以外にありません。マラキが、捕囚前や捕囚中の預言者ではないことについては、今日の学者の間で、広い一致が見られます。この書には、神殿祭儀について、多くが語られています。それは、神殿再建(前515年)が、既に過去のことになっていることを示しています。しかし、マラキは、祭儀の乱れを指摘しています。エズラによる祭儀改革(前458年)以前の状況を反映していますので、マラキは、それ以前に活躍していたと思われます。それは、前515年の神殿再建が民にもたらした熱狂的な興奮が冷め、祭儀に対する関心が薄らぐとともに、マラキが批判するような、祭儀の乱れが見られた時代でありました。

ハガイやゼカリヤは、神殿再建の暁には、イスラエルは栄光に満ち、土地も豊かな恵みをもたらすと約束していました。しかし、そのしるしが現れないばかりか、相変わらずペルシャの支配に甘んじなければならない時代が続きました。そのような中で、神殿再建がもたらした興奮は、跡形もなく消え去り、やり場のない失望だけが、民の間に広がっていました。マラキは、このような時代に祭司や民の心を、再び神へ立ち帰らせようとした預言者でありました。

マラキは、神殿再建(前515年)より後、エズラ改革(前458年)以前の、前5世紀前半の預言者であったと思われます。

捕囚以降の時代は、預言者が消えようとしていました。また、そう考えられていた時代でありました(ゼカリヤ13:2-6)。かつてのように、「主が言われる」と宣言しただけでは、人はもはや耳を貸さない時代でありました。このような時代を生きた預言者の多くは、民に訴える方法として、伝統的な託宣の形ではなく、抗議と論争の形式を、しばしば採用しています。マラキもまた、そのような方法を採用しています。

旧約聖書講解