エレミヤ書講解

20.エレミヤ書12章1-5節 『神に背く者たちの繁栄』

ここには、神に背く者が繁栄することに関して交わされたエレミヤと神の論争が記されています。預言者としてエレミヤが努力したことは、6章27節以下や8章6節、13節に見られるように、徒労に終わってしまったり、彼が告知した審判が中断したままなっていたりしていることから、エレミヤ自身深刻な信仰の苦悩に襲われました。そして、今やここにおいて、神への祈りとして、エレミヤは神に訴えています。このエレミヤを襲った苦悩の問題は、私たちの人生の苦悩の意味を考える上で、ヨブの苦悩の問題と共に多くの示唆を与えてくれます。

エレミヤを襲った苦悩の一番の原因は、1節後半に述べられている、「なぜ、神に逆らう者の道は栄え 欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」ということにありました。

神に背く者の幸福という問題に最初に注目したのはエレミヤであった、という学者もいますが、このような疑問が出てくる土壌は、旧約聖書の契約信仰と、救済の歴史の神としてのヤハウェの「義」という思想から、はじめからあったと見ることができます。旧約聖書の信仰の此岸的性格は、契約祭儀を背景とする神の審判という観念と結合した神の義の概念からきています。契約祭儀の伝統の中では、人の行為と結果は即応するという合理的な応報規範が見られます。即ち、犯した罪に相応しい審きが結果として表されるという信仰です。エレミヤは、この契約の伝統の枠の中で、このような問いを発しています。

1節で述べられている神に逆らう者たちとは、2節で、

あなたが彼らを植えられたので
彼らは根を張り
育って実を結んでいます。
口先ではあなたに近く
腹ではあなたから遠いのです。

と述べているように、ヤハウェの契約の共同体外にいる人間ではなく、契約の定めの下に置かれている神の民の成員であるからです。

それゆえ、神に逆らう者たちの幸運をめぐる問題は、基本的には、この契約の伝統によって、必然的に疑問にさらされることになる「神の義」という神学的な問題である、ということをエレミヤは明確に認識していました。しかし、このことによって、エレミヤ自身が神の義そのものを疑っているのでありません。エレミヤはこの疑問を神に出す前に、「正しいのは、主よ、あなたです」と最初に告白しているからです。神の義をエレミヤは実に厳粛に受けとめていました。エレミヤは、自分の疑問によって神の義がいかほどか棄損されるかもしれない、などという恐れを少しも抱いていません。神の義は、あくまでもエレミヤの信仰の揺るぎない基盤であるからです。

神に背く者の幸福について疑問を抱くことは、信仰の試練であると受けとめるとき、エレミヤは、このような疑問が人間自身に依拠したものであることを知っていました。しかし、エレミヤは、人間の理性の判断でこの問題を扱いきれないことも弁(わきま)えています。そうであるがゆえに、エレミヤは、「それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい」と祈りの中で神に語り、これを神の「裁き」に委ねています。エレミヤは、責任感が強く、かつ良心的に生きたいと心から願っていましたので、その意味を理解もせずに単純に、神に背くものが繁栄するという事実を受け入れることができないのです。
しかしもう一方で、エレミヤにとって神にすべてを委ねる信頼こそが最も基本的な信仰の在り方であることを理解しているがゆえに、このような人間的思惟と信仰との間の葛藤から抜け出す道は、ただ祈りにおける神との交わりの中らしか見出しえないと考えていました。その思いは、自ら探究し続け、ついに徒労に終わってしまったという、エレミヤを悩まし続けた疑問に対する回答を、神が与えてくださるようにという、心底からの願いを表す「なぜ」という問いかけに深くあらわれています。

2節に、その神に逆らう者たちの繁栄が叙述されています。

彼らの外面的な姿は決して不信仰ではありません。しかし、かれらの「口」と「腹」は全く異なります。4節後半に更に詳しく、神に逆らう者たちの「神は我々の行く末を見てはおられない」という本質が述べられます。

エレミヤはこのような神に逆らう者たちの偽りの信仰を見て、3節において、

主よ、あなたはわたしをご存じです。
わたしを見て、あなたに対するわたしの心を
究められたはずです。

と述べて、彼自身の神信仰の純粋性と率直性とを際立たせています。エレミヤは、ここで、神はご自分の預言者の心を見通しておられ、ほかでもない、その神信仰の厳粛さの故に預言者が試練にさらされているということもご存じなのだ、というのであります。

いつまで、この地は乾き
野の青草もすべて枯れたままなのか。
そこに住む者らの悪が
鳥や獣を絶やしてしまった。
まことに、彼らは言う。
「神は我々の行く末を見てはおられない」

という4節のエレミヤの嘆きのことばは、神の義をめぐる問題を別の角度から扱っています。これは、預言者エレミヤの告知したことばと密接に関わる側面から扱われています。絶えず民に滅亡を告知しなければならない預言者エレミヤは、罪ある者にもまた罪のない者にも選別せずに降りかかるそのような運命的出来事の過酷さを、自分の体をもって感じとっています。31章29-30節において、

その日には、人々はもはや言わない。
「先祖が酸いぶどうを食べれば
子孫の歯が浮く」と。
人は自分の罪のゆえに死ぬ。
だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。

と述べて、エレミヤは罪の問題の集合的応報の問題に取り組み、個々人は各々自分の行為に対してのみ罪の責任を取らされるのだ、という結論を下しております。

しかし、 このエレミヤの結論に対して、何の介在もなしに、突然、5節において、次のような神の応答が続きます。
あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら
どうして馬で行く者と争えようか。
平穏な地でだけ、安んじていられるのなら
ヨルダンの森林ではどうするのか。

一切のつなぎのことばを入れることのないこの形式は、おそらく、この神の答えが預言者にもたらした意外なる驚きを暗示していると思われます。それは、エレミヤが予期したような答えではなかったからです。この答えは、ヨブの問いに対する

これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。

というヤハウエの答えのように、問いかける人間を逆に「問いに投げ込む」反問でありました。ここで神が語る内容は、預言者の意図とまったく対立するものでありました。神は、二つの格言風の比喩を持って、預言者の疑問と嘆きを却下します。

預言者に、今、信仰の試練を課しているこのような緊急事態も、将来彼を待ち構えていることに比べれば、些細なことにすぎないというのであります。大人と一緒に歩く子供のように、既にここで疲れてしまったり、あるいは安全な地にあるときにしか安心できないようであるならば、そのときになって、どのように事に対処しうるというのか、と神は問い返されるのです。将来は、早馬競争にも譬えられるような、全く新しい活力が要求されるであろう。あるいはまた、野獣が脅かすヨルダンの茂みを旅するときに必要とされるような、勇気ある果敢さが要求されるであろう、と神はエレミヤに答えておられるのであります。このように、神はエレミヤのために、信仰と人間的思惟の間にある矛盾と緊張を解きほぐしてやるということをなさいません。

なぜなら、人生の極めて困難な諸問題は、合理的な知性による認識方法をもってしては解決されないからです。むしろ神は、人間に自分の弱さと不安とを自覚させながら、しかも今以上大きく且つ困難なる問題が将来に存在することを見通させることを通して、立ちはだかる試練を乗り越えて進ませようとされるのです。ここで神がエレミヤに要求しておられることは、単に、人生の不可解に対する「なぜ」という疑問を自分自身で勝手に洞察することの放棄だけにあるのではありません。そうであるなら、信仰において知性は犠牲にすべきということになってしまいます。そうではなく、人間の目には矛盾とみえる、神の義に反するように見える、そのような事実が起こるただ中にあっても、目を閉じて、耐え忍びつつ、神に信頼することです。だからといって、それは事実に目をつぶれということではありません。無言の服従による神への全き恭順を要求しておられるのです。静かに神の導きを信じる、それこそが、試練を克服する唯一の道であるからです。

旧約聖書講解