イザヤ書講解

68.イザヤ書61章4-11節『わたしは主によって喜び楽しみ』

第三イザヤは、「嘆いている人々を慰めるために」遣わされたという強い自覚、使命意識の下に、「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる」(61章2-3節)変化をもたらせる主の慰めを語りました。

4-11節は、その変化がシオンにとってどのような仕方で、またどのような点で実現されるのかを述べています。

捕囚から帰還して間もない時代の民の第一の願望は、廃墟となったまま(バビロンによる破壊と捕囚から60-70年が経っていた)の町々の再建です。第三イザヤはその再建を、まさに「「嘆いている人々を慰めるため」の主のわざとしてなされることを4節おいて語っています。第二イザヤにおいてはシオンへの帰還が本質的に重要なテーマでありましたが、第三イザヤの救済告知においては、再建が重要なテーマとなっています。それゆえ第三イザヤは、「建てる」という表現をしばしば用いています。

イスラエルは、町々の破壊がもたらした(4節)苦しみとともに、それにともなって味わった恥辱を、嘆きにおいて訴えました。7節には、その嘆きの訴えに対して、

あなたたちは二倍の恥を受け
嘲りが彼らの分だと言われたから
その地で二倍のものを継ぎ
永遠の喜びを受ける。

との慰めが与えられています。この言葉は、40章2節の第二イザヤに与えられた主の約束を根拠に語られています。

エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。

イスラエルはいまや恥辱を取り去られて、「その地で二倍のものを継ぎ」、財産と喜びの回復という二重の回復の恵みに与るといわれています。そしてこの変化の背後には、「正義を愛し、献げ物の強奪を憎む」(8節)、主なる神が立っておられることが示されています。この不法な「献げ物の強奪」という言葉は、かつての暗いエルサレムの滅亡とその征服された時代を思い起こさせます。しかしこの恥辱に応じて、その二倍の報酬を受け取り、その新しい救いの時代がいつまでも続くことが述べられています。それは「とこしえの契約」によって保証されることが述べられています。

第二イザヤは、この「とこしえの契約」を、「渇き」を癒す主の御言葉に、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(55章3節)という招きとともに語っています。第三イザヤには、そのような結びつきは強調されていませんが、当然それは前提されていたと思われます。第三イザヤは、とこしえの契約によってもたらされる状態の変化を強調しています。

9節は、7節において述べられている救いをより積極的に補足するように記されています。ここでは、神の救済行為の影響が全世界において知られるようになるといわれます。イスラエルは諸国民の間で、神によって祝福された民として知られるようになるといわれています。この第三イザヤの7-9節の言葉の背景には、明らかに第二イザヤの告知があります。特に45章20節以下の言葉が覚えられています。

都エルサレムの回復と、その民の栄誉の回復と、財産の回復、そして何よりもそれらによって与えられる彼らの喜びの姿、それが諸国民に認められ、彼らは素晴らしい祝福を受けている、彼らの神は素晴らしい、その神の恵みの下に自分たちも近づこう、そのように促されると語ったのが第二イザヤでした。

第三イザヤは、その光景を60章3節と14節において次のように描いています。

国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。

あなたを苦しめた者の子らは
あなたのもとに来て、身をかがめ
あなたを卑しめた者も皆
あなたの足もとにひれ伏し
主の都、イスラエルの聖なる神のシオンと
あなたを呼ぶ。

主に祝福されたものの喜びの礼拝、そこから発せられる喜びの叫び、賛美、その放つ香りは、世界の諸国にまで及ぶとするなら、私たちの喜びの礼拝もまたそのようなものとして、やがてこの地域の人々にも受け取られる日が来ることを確信させる言葉がここにあります。

9節の最後で述べられた、「主の祝福を受けた一族」のことがは、11節で詳しく述べられています。周りを取り囲み手入れされた「園」で、蒔かれた種が芽生え豊かに成長する様が描かれていますが、ここに描写されているのは、一回的なイスラエルに対する神の救いの行為ではなく、持続的な祝福のわざです。それは、3節の「主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木」のことを指していわれています。新共同訳聖書が11節の最後の行で「恵み」と訳している語は、「正義」の意味に訳されるツェダカーで、明らかに3節の「正義の樫の木」の正義ツェデクに対応しています。イスラエルは主のツェダカーに生き、それを園とされたエルサレムにおいて芽生えさせることによって、諸国民に「主の祝福を受けた一族」としての尊敬と憧れを抱かせる存在として成長していくことが述べられています。

10節は、この使信を受け入れる共同体の応答歌です。この応答歌は、44章23節の第二イザヤにおける、次の応答歌に匹敵するものです。

天よ、喜び歌え、主のなさったことを。
地の底よ、喜びの叫びをあげよ。
山々も、森とその木々も歓声をあげよ。
主はヤコブを贖い
イスラエルによって輝きを現された。

この第二イザヤの応答歌は、共同体の褒めたたえとして導入され、神のなさる特定の贖いによって、その褒め称えが理由づけられていますが、61章10節の応答歌はあくまで個人の歌として導入され、その理由付けも個人に対する神の救済行為として一般化されていますが、第二イザヤが行なった救済告知と共同体の応答との結びつきを保持しています。

いずれにせよこの応答歌は、わたしたちの真の喜びは、「主によって」与えられるものであり、個人としての「わたしの喜び楽しみ」は、ただ主によって与えられるという、大切な信仰を教えてくれます。「わたしの魂」の喜びは、神の懐にあって与えられるものであり、神の中にある深い安らぎ、御手の守りを与えられないと、わたしの魂は喜び踊る幸福を感じることもありません。

イスラエルには、いま貧しく、晴れ着を纏うことも、それを買うこともできない個人が沢山いたことでしょう。その晴れ着を一人一人の個人に買い与えて着せるように、主は一人一人を覚え、「主は救いの衣をわたしに着せ、恵み(ツェダカー)の晴れ着を纏わせてくださる」と歌われています。主の花婿、花嫁のように、大切にいとおしく扱ってくれる主の恵みに対する応答歌が、第三イザヤにおいてもこのように歌われています。主の救いは、そのような賛美を必ず伴います。この応答歌を私たちが歌うことによって、また主によって与えられる恵みの素晴らしさをかみしめることができるようにされています。この応答歌は、繰り返し個人によって、「わたしの喜び楽しみ」として歌われることが期待しています。

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