イザヤ書講解

66.イザヤ書60章10-22節『主がとこしえの光となり』

イザヤ書60章4-9節は、シオンへ向かう諸国民の姿を叙述していますが、10-16節では、都(10-11節)及び神殿(13-14節)の再建と新しい救いの状態について叙述し、15-16節でその全体を総括しています。そして、17-22節の最後の段落では、救いの状態を描写しています。第三イザヤのメッセージは、神の行為としてのヤハウエの救い贖いを語る第二イザヤと違って、変化した状態を描写することに特徴があります。それゆえ、ヤハウエの救いを変化した状態に関係づけることによって、その概念と直接性と簡潔さが失われているという批判が第三イザヤに対して聖書の研究者たちの間でなされています。それはこの預言者の時代が、解放前の第二イザヤのように、捕囚からの解放を神にある希望としてだけ語りえた時代とは異なるという事情に起因します。解放後、帰還したエルサレムの状態は相変わらず混乱し、多くの者は貧しく、帰還した者はわずかであり、国の復興も、都の再建も、神殿の再建もままならぬ状況であるがゆえに、復興後の姿を目に見える形で描く必要がありました。この預言者はバビロンによって滅ぼされた都、国、神殿の無残な姿がそのまま残っている敗戦焦土の中の「貧しい時代」の只中にあって語っています。

そこに期待されるのは、その現実とは全く違う逆転の姿です。それは内面的な信仰の変化ではなく、目に見える形での鮮やかな復興の姿であり、苦しめた者たちと自分たちの立場が逆転する姿であります。現実の悲惨さの中で打ちひしがれているものにとって富への憧れや、文化的に高いものへの憧れが、誰よりも、また他のどの時代よりも強い願望としてありました。第三イザヤはそうした者を、不信仰として排除することも、非難することもしません。彼の救済告知には、経済的・物質的要素が目立つのは、いま言った事情が背景にあるからです。そしてこの預言者の告知には、文化を肯定する注目すべき特徴が含まれているという意見もあります(ヴェスターマン)。

以下に、節を追って使信の内容を見ていくことにします。

10-11節は、異邦人への長く厳しい隷従を強いられた経験を背景に、やがてそれが逆にされるとの約束が語られています。そのときには異邦人はシオンの城壁を築き、その王たちはイスラエルに仕えねばならなくなるといわれています。10節の後半は、54章8節の「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。」という第二イザヤの言葉を引用しながら語られていますが、第二イザヤは、神の直接的な救いのわざを強調するために用いていますが、ここでは、これまで彼らを支配していた異邦の王や人々が、彼らに仕えるという状態の変化において、イスラエルの人々は神が再び慈しみを持って民に顔をむけられたことを知るようになる、という説明として引用されているにすぎません。

メッセージに中心は、どこまでも状態に変化に置かれています。城門がいつも開かれた状態にあることは、本来平和と安全の象徴としての意味を持っていますが、ここでは4-9節において述べられたことと関連して、財産を携えた諸国民が絶えずシオンにやってくるので、城門は閉ざされることなく開かれたままである、といわれます。

都の再建の次に来るのは、神殿の再建です。この主題は13-14節において扱われています。レバノンの杉は、かつてソロモン王の時代に神殿を築くときに用いられた高価な木材です。この遠い森にある立派な、しかも高価な木材が新しい神殿の建築のためにシオンやってくるといいます。供儀用の動物がシオンに向けて集められることを記す7節は、内容的には13節に続くこととして、本来述べられていたと考えられます。このエルサレム神殿での礼拝がやがて栄光を受けるとの告知は独特で、第三イザヤにだけ見出されます。これは捕囚前の救済預言の延長線上において語られており、明らかに別の仕方ではありますが、ハガイとゼカリヤにも見出されます。第三イザヤはイスラエルが礼拝のために用いる神殿が美しく飾られ充実した様だけを告げ、そこで捧げられるであろう礼拝の内的な変化については何も述べていません。この点は第二イザヤと大きく異なっています。第二イザヤは43章22-28節において、供儀による祭儀を回顧して、イスラエルのかつての礼拝の空疎さを批判しつつ、決して彼らに捧げものことで要求を突きつけることもしなかったと述べ、彼らを汚辱にまかせたが、「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」(43章25節)という慰めに満ちた転換を行なわれる主の言葉を記しています。

第三イザヤと民の目の前にある現実は、依然として再建のめどさえ立たない状況であり、破壊されたままの神殿の無残な姿です。しかしイスラエルの願望には、神殿がかつての輝きを取り戻すことです。イスラエルの信仰の内面的な再建についての意識が、それについての言及が一切ないので、第三イザヤには、第二イザヤほど強くなかったということは簡単には言えません。神殿の再建とヤハウエ信仰への内面の強化とは、むしろ一体のこととして考えられていたと理解するほうがよいでしょう。

第三イザヤにおいては、むしろ、異邦人との関係の逆転の状態を叙述することによって、第二イザヤの預言の成就を見ることに預言の力点が置かれているように思われます。

14節には、エルサレムにおける礼拝の来るべき栄光化が、以前イスラエルを苦しめた圧制者たちの子らが、その時身を屈めてやって来て、そこを「主の都、イスラエルの聖なる神のシオン」と呼ぶことによってなされる、と述べられています。3節においては、シオンへ向かう諸国民の行進の告知は二つの方向で展開されていました。第一に、いつか諸国民が自らやって来て主に仕え、エルサレムの再建に協力すること、そして第二に、そのことによってシオンは光と祝福が来る聖なる場所であることが明らかにされ、ここで礼拝される神こそが真の力ある神であるということを諸国民が承認するとき、シオンの栄光は新たにされることが述べられていました。いまは、悩み嘆くしかないイスラエルとその都と神殿とがそのように栄誉を回復することを、外面的な神殿の再建に属することとして語られています。人々の心は、そのようにしてしか認識し得ないというむしろ深く、またそうであるがゆえに深刻な認識がそこにあるかもしれません。

15-16の二つの節は、10-16節の段落を締めくくる言葉です。この二節は、第二イザヤに由来する言葉が多く用いられています。しかしその強調は助けと贖いを行なう神の行為に置くのではなく、変化した状態に関係づけることによって直接性と簡潔さが失われています。

17-22節の最後の段落では、救いの状態の描写が際立っています。第三イザヤという預言者は「貧しい時代」にあって語っています。敗戦焦土と化した戦後間もない時代は、粗末なものしかなく、高価なものへの憧れは強くあっても、人々は、それらを見ることも手に入れることもできませんでした。第三イザヤはそのような時代にあって17節の言葉を語っています。貧しい時代にあって、最低の生活を窮々としながら維持していた生活の中では、金、銀、鉄は得がたい高価な品です。それは自由で豊かで快適のしるしとしての意味を持っていました。そして、その統治も変化します。異邦の支配者に変わって平和と公平(「恵みの業」は意訳)が生ずるということだけが17節の最後に述べられています。それがどのように実現するか、どのような支配がなされるか具体的なことは記されていません。いずれにしても期待され、約束されているのは、暴力行為と破局の終わりなき連鎖の時代が終わり、平和が訪れるということです。それによってもたらされる状態の変化が18節の言葉で補われています。

イスラエルは永遠に失われることのないと約束されたダビデの町エルサレムと約束の地から追われ、捕囚とされ、その地を一度失いました。21-22節において、その回復が「民は皆」といって、すべての民が「主に従う者」(これも意訳で「義しい者たち」が原義)となり、「とこしえに地を継ぎ」、再び地を追われることがないとの約束が与えられ、成長と繁栄の約束が与えられています。22節の結びの言葉は、第二イザヤの46章10節や48章12節の主題を取り上げ、その成就を繰り返し約束しています。

19-20節は、黙示文学的な描写を取って、終末の日における宇宙的な主の支配による転換が語られています。ヨハネの黙示録21章23節はこれを取り上げて、主の日における救いの描写に用いています。創世記1章1-3節では、神が光の創造者として、創造を知らない暗黒の世界に光をもたらせる方として示され、神の言葉に従うことによって、世界は光を得ることになることとが一体として語られていますが、ここでは神ご自身が光として輝かれるので、世界には太陽の光さえ要らないという実に慰めに満ちた希望のときの到来が約束されています。「主があなたのとこしえの光となる」という言葉の実現を、この時代の民はまだおぼろげにしか知りません。しかし私たちには、キリストの復活の光において、その希望をもっと鮮やかに見る幸いをすでに与えられています。第三イザヤのこの預言を聞いた者は、ここで示される現実をほとんど味わうことがありませんでした。そういう点では、この預言は歴史の現実からは離れる形でなされています。しかしそうであるが故に、希望なき現実の中で苦しむ者に大きな慰めと励ましを与える使信としての意味を、時代を超えて持ち続け、メシアにおける成就を待望する意味を新たに獲得することになり得た、ということができます。そしてそこから終末における救いの完成、完成された栄光の状態を待望する終末信仰への萌芽をここに見ることができます。

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