イザヤ書講解

54.イザヤ書52章7-12節『福音-平和と救いの知らせ』

いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。(7節)

ここで語っているのは第二イザヤ自身です。彼は、「良い知らせを伝える者」として主の召しを受け、エルサレムの心に主の慰めを語る使者として、主の福音を告げました。主の救いの恵みを受けるため呼びかけられているのは、バビロンに滅ぼされた都エルサレムとバビロンに捕囚の民とされた者たちです。エルサレムには苦役から解放され、主の慰めを受けるという幸いが語られていました。捕囚の民には、荒野に主のために道を備え、広い道を通せと告げられていました。それは新しい出エジプトとして語られていました。そして、それは、主が御言葉の力によって成し遂げることとして語られていました。

高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。(40章9節)

第二イザヤは、主からこのようなメッセージを携えて福音の使者となるよう召しだされていました。そして彼がその民に告げるべき言葉は、次のようなものです。

見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる(40章10-11節)

52章7-10節は、40章9-11節をほとんど同じ言葉を繰り返していますが、ここでは、51章9節から52章3節に歌われた内容に対する応答歌としてここで歌われています。そこで嘆かれたイスラエルの嘆きに決着がつけられることを告げたのは、まさに第二イザヤです。その彼が、山々を行き巡り、「よい知らせを告げる者」としての自分の足が「いかに美しいことか」と歌っているのは、自画自賛のためではありません。彼の使信は主(ヤハウエ)から出たものです。だから美しいのは主の使信が実現することであり、その実現の美しさゆえに、それを伝える者の足は美しいと第二イザヤは歌っているのです。彼は自分を誇ってそういっているのでなく、その光栄ある務めの美しさ、その任を実行する者の足が美しくされている喜びを、このように歌っているのです。

第二イザヤは自分の働きを客観化して、「彼は」と自分のことを呼んでいます。第二イザヤは、主の勝利の使者として、二つの任務を持っていました。第一は、「平和」と「救い」の「恵みのよい知らせを伝える」務めです。第二は、シオンに向かって「あなたの神は王となられた」と告知する務めです。

エルサレム(シオン)にとって、バビロンによって滅ぼされることは、彼らの罪の故に主が見捨てられたことを意味していました。わが民でないという主の宣告を聞き、その結果として起こる出来事でありました。それは彼らを救う神として、そこに主が共におられないことを意味していました。少なくとも彼らの信仰においてそう理解されていました。だから、エルサレムが主の救いにおいて何より大切なのは、主がシオンに帰ることです。その事実を見ることです。主が本当に不在だったわけではありませんが、苦難の時代、民の信仰において主の臨在を実感することはなかったのです。しかし今や、この知らせを聞くシオンの城壁に立つ見張りの者も、町に住む民も共に、主が帰還され、王として即位されたという喜ばしい出来事を告げられ、それに与る者とされています。

40章においては、主は、羊であるイスラエルを牧する羊飼いとして語られていましたが、ここでは王として語られています。

彼らの王である主は、「御腕の力」で敵に打ち勝ち(10節)、凱旋行進して都に入り(8節)、即位して王への歓声の叫びで褒め称えられる(9節)といわれています。

シオンの不名誉と悲しみの原因は、彼らの滅亡によって、彼らは主の民でないという審判にありました。それゆえ、主がシオンに帰られ、王として即位される出来事は、それが約束されていたとおりに今や実現する、この現実こそ、民の慰めであり、贖いでありました。それは、単に彼らの都シオンに君臨するイスラエル民族の王としての支配だけではなく、「国々の民」も注目し、「地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ」(10節)ようになる、そのような王としての支配がここで歌われているのです。

このように主の王としての即位と救いが、「地の果てまで、すべての人」に及ぶ世界大の救いである限り、主の「聖なる御腕の力」は、バビロンの捕囚の民にも及びます。

それゆえ、11節において、捕囚の民には、「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ」と呼びかけられています。これまで語られた第二イザヤの使信全体は、この命令を目標にしていました。彼の使信は、「わたしの民を慰めよ」という神の呼びかけに端を発し、最後の実行として、「そこを出よ」という命令で結ばれています。

しかし、この命令を実行するために、「急いで出る必要はない/逃げ去ることもない」(12節)といわれています。救いは、主によってすでに実現しているからです。彼らにとってなすべきことは、主の民としてふさわしく、汚れた地から自らを分かち、身を清め、主の祭具をそこから担って持ち帰ることです。

このシオンへの帰還には、二つの意味がありました。第一は、バビロンで守られていた礼拝を故国へ持ち帰ることです。かつてエジプトの王ファラオにモーセが告げた出エジプトの目的は主を礼拝するためでありました。ここで、バビロンから解放されシオンに帰還する民は、バビロンで守られていた礼拝を故国へ持ち帰り、シオンの礼拝を整える、そういう使命を与えられています。

そして、この帰還は新しい出エジプトとしての第二の意味が与えられています。それは「あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」という最後の言葉において示されています。王である神がイスラエルを前から後ろから守り、「平和と安全」のうちにシオンへ帰還させるといわれているのであります。

これらすべてを主なる神(ヤハウエ)が約束し、神がその約束したとおりに実現される、ここに「恵みの良い知らせ」(福音)の本質があります。パウロはローマ書10章においてイザヤ書52章7節を引用することにより、信仰とは、この福音(キリストの言葉)を聞くことによって始まると述べています。福音が福音の出来事として現実に起こるのは、その言葉を信じる者の間においてです。主の前から後ろからの守りは、この福音を信じる者の新しい出エジプトの帰還への旅の中で表されます。私たちにとってそれは、主の十字架と復活の言葉を福音と信じ、終末へ向けて地上を旅する教会の現実として示されています。

そのために必要なのは、「そこを出よ」という主の声に聞くことです。しかし、急ぐことなく、慌てることなく、静かに信じて、主に従うことです。そのように旅立つ者を主は前から後ろから取り囲むようにして守り、最後まで導きを与えてくださるという確かな約束がここに与えられているのです。

ここに終末に向かう途上の民としての教会のゆるぎない希望、慰め、平安があります。

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