イザヤ書講解

45.イザヤ書45章18-25節『地の果てのすべての人々よ、救いを得よ』

45章1-7節は、ペルシャ王キュロスによるイスラエルの解放を告げる約束を語っていますが、その救いはイスラエルだけにとどまるものでないことが、6節において次のように述べられていました。

日の昇るところから日の沈むところまで
人々は知るようになる
わたしのほかは、むなしいものだ、と。
わたしが主、ほかにはいない。

その際、神は、ご自身を、光だけを創造する者ではなく、闇の創造者でもあること、また、平和だけでなく、災いをも創造する方として示されました(7節)。それは、世界に起こり来ることすべての原因がご自身にあり、この世界を支配しているのはご自分であることを明らかにしています。言い換えれば、ご自分以外に神はないということを明確にする意味で、重要な意味を持っていますが、神が闇と災いの創造者と言う表現は、正義と祝福の源としての神という考えからは、大きな驚きと、疑問が残ります。

18節の言葉は、そのような疑問に答えるように、神はこの世界を「混沌として創造されたのではなく」と述べられています。これは、闇の創造が、神の創造における本来の目的ではないという、強い否定の意味が示されています。世界の創造者である神は、世界の諸国民をも救うことを念頭に置いてすべてを支配されます。そして、彼らも神の被造物に属し、神は彼らのために世界をその居住空間として創造されたことを明らかにされています。

神はこの世界と歴史を支配する主として、ペルシャ王キュロスさえ用いて、イスラエルをバビロンの捕囚の地から解放されます。しかし、その解放はイスラエルだけに止まらず、世界の救いのためのものであることが20節以下において明らかにされています。

20節は、その招きの言葉です。「国々から逃れて来た者は集まって/共に近づいて来るがよい」といって招かれています。この招きを受けているのは、バビロンの崩壊によって、その政治的崩壊から逃れてきた者たちです。そこにはバビロン人のみならず、彼らの虐げの中で過ごすことを余儀なくされて、その支配の下でバビロンにいた諸国民も含まれています。これらの人々がここでは一括して、「国々から逃れてきたもの」と呼ばれています。そして21節において、「意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べていたかを」といって、バビロン崩壊後の今、彼らは自らの権利要求を申し述べ、その根拠を説明するよう求められています。しかし彼らはもはや、自分たちの神々の力を持ち出すことができません。「だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べていたかを」という言葉の前に、彼らは、自分たちの神と信じていた神がそのような事実を一度も示さなかったことを、認めざるを得ないからです。その事実を彼らに十分確認させたうえで、以下のように述べて、イスラエルの神、主なるヤハウエは、諸国民を避難民にした出来事を予告したのはご自分だけであったことを明らかにされます。

それは主であるわたしではないか。
わたしをおいて神はない。
正しい神、救いを与える神は
わたしのほかにはない。

この事実から、もはや逃れ得る者は、一人もいません。神はこの出来事を民に予告し、この出来事において、ご自身が「正しい神、救いを与える神」であることを彼らに明らかにされています。

このように神が言葉と行動において信頼できる方であるということは、その民との関係だけにおいて明らかにされたのではなく、その領域を越えて広く及んでいくものであることを明らかにされます。この予告は世界史とかかわりを持つものとして、「逃れて来た者」たちとしてのイスラエルに向かって、イスラエルの国の外で、他の支配権力の領域で語られたものであります。主なる神ヤハウエは、イスラエル外の他の支配権力の只中で、あたかも何事も起こらなかったかのように見えるその歴史の中で働きを続けておられたことを、その予告の成就において明らかにしておられます。そうすることによって、ご自身が正しい神であり、救いを豊かに与える神であることを、イスラエルの外で実証されているのであります。

しかし、ここではヤハウエの勝利にふさわしい凱旋行進が行われていません。昨日まで権力を持ち、イスラエルに対して優位に立っていた者たち(バビロン)がいまや避難民となり、彼らに打ちのめされて捕囚とされていたイスラエルと同じ運命が、彼らの上に降りかかることになりました。それなのにイスラエルの中から勝利の歓声は起こっていません。

その代わりに、それと全く違うことが起こっています。それは、その大惨事から逃れてきた諸国民に対する救いへの招待です。それは、18節で述べられていたことに呼応するように、22節において次のように述べられています。

地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。

諸国から逃れて来た者たちにこのようになされる救いへの招きは、キュロスの介入をもって神の歴史行動に根本的な変化が起こってことを確証するしるしとしての意味を持っています。神は全世界の創造者です。それゆえに全世界の支配者です。だからそのような方としてキュロスによるバビロンの制圧と諸国民の解放を予告し、諸国民にご自分が真の神であることを実証し、彼らを滅ぼすことがご自分の意図したことではないことを明らかにされます。

これらの言葉は、諸国民と諸国民の神々に対するヤハウエの訴訟の法廷弁論としての意味を持ち、その勝利の宣言が語られていますが、この勝利は全く新しい意味を持っています。それはもはや征服も、全滅も意味せず、新しい神の事柄への同意を意味します。

「わたしは神、ほかにはいない」ということを納得し、この神以外に救いはないという、信仰における同意です。

23節において、主は逃れてきた諸国民に対して誓いをしています。

わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。

これは諸国民にとって実に慰めと希望に満ちた主の誓いであり、約束であります。この慰めに満ちた主の誓いを聞いて、諸国民がただ一人の真の神がおられることを認め、確信し、自由な喜びと確信を持って、その信仰を表明するものとなることが、主の救いの目的でありました。だから彼らは次のように告白することが求められました。

わたしの前に、すべての膝はかがみ
すべての舌は誓いを立て
恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。(23節b-24節a)

このようにして主は、地のすべての民に、救いに通じる自由な扉を開かれました。しかしそれは、人類の総体に漠然と開かれたのではなく、一人一人が、主の前にひれ伏し、「恵みの御業と力は主にある」と告白し、主の救いを得るように招かれているのであります。まことにそれは44章5節で述べられていたことの成就として、ここで語られています。かつて神の敵であり、神と戦った者たちが(24節b)がやって来て、イスラエルと共に(25節)神の救いに与る者とされています。

この23節bの本文は、ローマの信徒への手紙14章11節で次のように取り入れられています。

「主は言われる。
『わたしは生きている。
すべてのひざはわたしの前にかがみ、
すべての舌が神をほめたたえる』と。」

またフィリピの信徒への手紙2章10-11節では、次のようにして、主イエスの救いとして、取り入れられています。

こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

主の民の概念の決定的変化は、すでに第二イザヤにおいて起こっています。第二イザヤにおいて、主の民が政治的に構成された民族であることは、永遠に終わりを告げています。主の救いは、「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ」という招きの下に、世界のすべての民に開かれ、主の民に所属する根拠は、この方だけが神であることを見出した者たちの、自由な信仰告白に置かれています。

キリスト教会の宣教と救いの理解にとって、そして教会論にとって決定的意味を持つ、信仰告白による教会形成という契機が、この第二イザヤの中にすでに示されているのであります。

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