イザヤ書講解

35.イザヤ書42章5-9節『諸国の光として』

イザヤ書42章5-9節は、第二イザヤの使信の中でも難解な箇所です。この箇所ではっきりしているのは、語っているのが主なるヤハウエであること、6節で召命のようなことが表明されていること、7節でその出来事の目的が告げられている、という三つの事柄だけです。明らかでないのは、主が誰を召し、その召された者が誰のもとで働くのか、また彼の任務とは何であるのか、という事柄です。特に6節で「あなた」と呼びかけられている存在が、1-4節までの「僕」なのかどうかについて、注解者の間で意見がわかれています。それゆえ、この人物が誰であるかは、この文脈全体を丹念に調べながら確定していく必要があります。

まず5節において、神は天と地と人類の創造者であることが述べられています。この表現は第二イザヤに特徴的な表現です。この導入の言葉において、創造者である神の力と知恵がたたえられています。創造者としての神は、「その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与える」存在として語られています。この表現は、創世記2章の人間の創造物語に見られる記事とよく似ています。表現が似ているということは、両者が同じ人間認識に立っているということを示しています。すなわち、創世記2章の記者と第二イザヤは、人は神に命の息をあたえられてはじめて生きるものとなるという認識を共有しています。ここでは、その活動に関して、「歩く」という言葉で表現されています。命のみなぎりは、「霊を与える」神の働きに支えられてはじめて可能であることがこの言葉において示されています。しかし、創世記においては、一人の人間を形づくる神の行為が強調されていますが、ここではそのような結びつきは強く語られていません。むしろ広く人類、あるいは6節の「民の契約」という言葉との結びつきの中で見るとき、神に選ばれた民に命とその活動が、神の創造の働きとして語られています。あるいはその創造の神の働きが今も同じように続いている事実を強調するために、このような表現が用いられているということもできます。その場合、これらの言葉は、民の召命の言葉と結びつけて語られているということになります。

そして、「民」とは、この場合、イスラエルの民をさすのか、もっと広く、人間の群れ、あるいは人類を表す名称にまで拡大されている可能性があります。

6節で用いられている「呼ぶ」「取る」という動詞は、41章9節では、イスラエルに対する主なる神の行動、それもイスラエルに対する神の歴史活動の始まりをさすものとして用いられています。そしてそれに続く文は、「あなたはわたしの僕」といっています。この平行関係から6節を理解するなら、ここで呼びかけられ、主の手に取られて守られているのは、イスラエルであると理解するのが最も自然です。そしてこれによって、1-4節と6節とのつながり具合もうまく説明がつきます。ここで呼びかけられ神に選ばれたのがイスラエルであるならば、イスラエルを選んだのは、5節との結びつきから、天と地の創造者、人類の創造者であるということになります。

神の創造は、天と地に及び、イスラエルという限られた民を超えて、人類のすべてに及ぶ。このことの意味は、非常に大きなものとして理解する必要があります。つまり、このような神の創造としてのイスラエルの選びは、この神の宇宙大、世界大の創造の光の中から、その意味を理解することを求めているからです。イスラエルの選びは、神の世界大の救いの計画の端緒としての意味を持ちます。そして、その選びは使命を伴う召命を意味しています。イスラエルは創造者なる神の選びに与って、新しい課題、任務を与えられたのであります。イスラエルに与えられた使命が、6節後半で明らかにされています。

イスラエルは「諸国民の光として」神の選びに与ったといわれています。諸国民は、あなた(イスラエル)を通して、神の光、明るさ、救いを知る、ということが意味されています。イスラエルはそのように人類全体の救いの契約を神と結ぶ大使としての全権委任を受けているのであります。イスラエルは、そのために神に創造され、形づくられ、立てられた、という光栄が語られています。この祭司の民としてのイスラエルの選びに関し、出エジプト記19章5-6節に述べられています。

第二イザヤは、エジプトからの救いという出来事を飛び越えて、創造までさかのぼり、そこから世界の救いについて語る点で、その視座を更に拡大しています。7節には、僕とされたイスラエルに与えられた救いの使命が具体的に述べられています。ここでは苦難からの転換が述べられています。

「見ることのできない目を開き」という言葉で表されているのは、この場合、イザヤの召命のときに語られた、彼が語ることによって人々の「目を暗くする」働きと、反対の使命を与える言葉として理解することができますが、むしろ、生来目が見えないという苦難からの解放という意味が示されているという解釈もあります。その場合、この生来の苦難に対して、「捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出す」という行為は、人為的になされた苦難からの解放という意味が語られているという解釈が成り立ちます。

いずれにせよ、これらの言葉は、イスラエルの霊的な盲目性の罪が原因で味わった捕囚の体験からの解放や、その苦難のことが強調されているわけではありません。ここでの意味は、イスラエルは、神によって、世のための光、救いの仲介者となるよう定められているということであります。イスラエルは他者に光と解放をもたらすべきものとして召されたということであります。しかし、この召命からイスラエルの苦難の意味を解釈することも可能です。彼らの、罪の破れ、苦難は、この使命のためのものとしてあったという積極的な評価をする信仰的な見方も、大切な歴史の見方であります。

いずれにせよ、神はこのような救いの業を明らかにすることによって、ご自身が神であることを明らかにされます(8節)。

神がほかの誰にも渡さない栄光と栄誉とは、神がその救いの業において人々から承認されるということであります。神がその救いを明らかにされ、その救いを喜び承認する人々の間で神の栄光はより鮮やかに現われます。

神はこのようにしてご自身が神であることを明らかにされます。そして、イスラエルは世界に救いをもたらす使命を帯びた祭司の民として、この神の栄光に与ります。そこにまた彼らの光栄があります。このイスラエルの選びは、またわたしたちのキリストにある選びの型として示されています。第一ペトロ2章4-5節には、次のような言葉が記されています。

この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

ここに語られている「諸国の光として」のイスラエルの選びは、わたしたちキリスト者が神の選びの救いを、世にあってどのように理解すべきかを指し示す大きな光を投げかけてくれます。決して、救いは、その救いに与る選ばれたモーセに対してのみ与えられる閉じらたものではなく、神が「諸国の光として」他者に先立って選んだ民を用いるために、世界の基がおかれる前から計画された業の成就としての側面を持っていることを覚える必要があります。その理解に立つとき、この文脈の中で特にわかりにくい、9節の「見よ、初めのことは成就した。」という言葉の意味が始めて明らかになります。

そして主は、この出来事を、「新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。」ご自身がこれからなす救いの言葉として語り、選びの民イスラエルに与えた使命の意味を彼らに語り聞かせるというのであります。

わたしたちにも、そのすばらしい喜びの知らせを聞くものであることが求められているのであります。

旧約聖書講解