イザヤ書講解

16.イザヤ書20章1-6節『エジプトに望みを置く者は』

イザヤ書20章は、1節の言葉から、預言と事件の年代がはっきりしています。1節は、3-6節に記された神の言葉の日付を前711年と定めています。この箇所を理解するためには、当時のパレスチナ周辺の歴史的な事情を知っておく必要があります。

前715年頃に、エチオピア人の王シャバカがエジプト全土を制圧し、第25王朝を建てました。当時、パレスチナの諸国は、アッシリアの大王サルゴン二世の支配下にあって、朝貢を強いられていましたので、エジプトの力を借りて、その重いくびきから解放されることへの望みをいだきました。

パレスチナの諸国は、これまで同盟によって、しばしばアッシリアの勢力と対抗する試みをしてきました。前722年に、その同盟に与した北イスラエル王国は、アッシリアによってサマリアを占拠され、滅ぼされました。この記憶は、パレスチナ周辺諸国において強烈に残っています。シャバカのエジプト制圧のニュースは、アッシリアに対抗できる超大国の出現として、パレスチナ諸国に歓迎されました。

エジプトの後楯を期待して、反乱の旗手として立ち上がったのがペリシテ人の町で、その北端に位置していたのがアシュドドです。前713年から711年の間、アシュドドは反乱の中心となりました。アシュドドの王アズリがサルゴンへの朝貢を止め、反乱を呼びかける使者を近隣の王たちに差し向けたとき、サルゴンはアズリに代えてその弟アヒミティを王に据えました。

しかしこの措置は成功しませんでした。ペリシテ人は押しつけられた新しい支配者に対して暴動を起こして、アヒミティに代えてイオニヤ人のヤマニという人物を王にしました。この新しい王ヤマニは、アシュドド以外のペリシテ人諸都市だけでなく、エドムやモアブ、そしてユダをも反アッシリア同盟に関心を持たせることに成功しました。この同盟成立の背後には、シャバカによって成立したエチオピアとエジプトにまたがる新興の超大国の支援を、当然の如く期待する空気がありました。

しかし、この期待は全くあてはずれに終わってしまいました。シャバカが強大なアッシリアとの衝突を得策とは考えなかったことは明白です。アシュドドの王イオニヤ人ヤマニがアッシリア軍の接近によってエジプトに逃げ込んだとき、シャバカは彼の手足を縛ってアッシリアの大王に引き渡してしまいました。アシュドドやガテ、またアシュドドの外港アスドゥディンムが征服され、エジプトから一兵の助けも送られないままで、反アッシリア運動は惨めな終わりを迎えることになりました。

当時エルサレムを統治していたダビデ家のヒゼキヤが、どの程度この反乱運動に巻き込まれていたのか、詳しいことは知られていません。前711年のアッシリアの遠征がユダの北隣の国に及んだという記録は何もないので、ヒゼキヤは単に謀議の段階に留まったのか、もしくは時宜を得た降伏を行ったのかいずれではなかったかと推察されています。以上が本章の背後にある出来事です。

イザヤ書20章の構造を簡単に申し上げておきますと、1節は、3-6節に記された主の言葉の日付を前711年に定めています。3-4節は預言者の注目すべき行為を説明しています。5-6節はユダ人とペリシテ人に及ぶ事柄の結末を述べています。日誌風の導入句である1節と審判の告知である3-6節との間に、その審判を予め示す象徴行為をするようにイザヤに命じられた神の言葉が括弧に入れられた形で挿入されています。

「将軍」(タルタン)とは、字義通りには「第二位の者」ですが、ここでは最高司令官の意味で述べられています。アッシリアの大王サルゴンは、直接反乱を起こしたペリシテ諸都市の処罰を行ったのではなく、タルタンによって行われたことが述べられています。この年は、前711年です。

2節の「それに先立って」という言葉は、字義どおりに訳せば、「その時」です。これは非常に漠然とした表現ですが、711年の少なくとも3年以前、パレスチナ諸国が反アッシリア同盟の謀議をしていた以前にという意味で取られなければなりません。そうしないと、イザヤが3年の間、裸、裸足で歩き回ったという3節の言葉と矛盾が生じます。

預言者はしばしば象徴行為を持って、神の啓示の道具としての役目を担わされることがありました。イザヤ書7、8章にはイザヤによって生まれる子が預言の意味をもつ事が明らかにされていますが、エレミヤもエゼキエルも同じ様な象徴行為を行っています(エレミヤ書13章1-7節、エゼキエル書4章4-6節)。

預言者は神の手、神の道具です。そのような者として神の命じるままを行わなければなりません。神は言葉だけでは限界があると感じられたとき、大胆に人間の視覚に訴える啓示の手段を用いられます。これが預言者に求められる象徴行為です。しかし、イザヤにとって、「裸、はだしで歩く」ことは、言語に絶する恥辱であったに違いありません。ここで、イザヤに課せられた務めが文字通り素っ裸でいることなのか、それとも腰布だけはまとっているのかについては、注解者たちの間で意見の相違があります。いずれにせよ、イスラエルでは裸は恥であり、捕虜や敗走者の目印にされました(歴代誌下28章15節、アモス書2章16節、ミカ書1章8節)。

イザヤがこの命令を受けたとき、命令の意味を十分に理解していたのかどうかは判りません。同様に、ユダの人々にその意味が理解されたのかどうかも判りません。

しかし、この預言者の衝撃的な行為は、ユダの人々にとって意味が判らなくても、イザヤが神の強制の下におかれていると感じることはできたはずです。その行為の意味が、預言者にも目撃者にも十分に見通すことができないところに、この行為を神からの働きかけとして理解すべき理由があります。

預言者が自ら好んでこのようなはずべき行為をすることは考えられません。また、主はイザヤを「わたしの僕」と呼んでいます。イザヤは主の僕として、自らの好みをいっさい主張せず、ひたすら神の啓示の道具として留まろうとしています。

3年の間をあしかけ3年と見ても、最低でも14か月間です。エジプトと違って、パレスチナの冬を裸で通すことは、人間には不可能だと言われています。実際には、外出するときだけこの行為が求められたのかどうか、或いは時々行われたのか判りません。

しかし、この預言のもつ重要性、厳しさから考えて、この預言をあまり人間的に斟酌して、理解しやすくして解釈するのは間違っていいます。イザヤは恐らく、3年の間素っ裸になって、裸足でエルサレムを歩き回ったのでしょう。それは期間の長さから見て、恥辱の厳しさを示しているだけでなく、厳しい寒さと暑さを耐え忍ばねばならない自然の厳しさも示されています。預言者はこの厳しい現実を、将来、民の味わうべき恥辱として、自ら先取りしてこれを味わっています。だからこそ、彼の行為は注目を浴び人々の記憶に留められたはずです。

しかし、イザヤのこの象徴行為が指し示すのは、エジプト人とエチオピア人の遭遇すべきことでありました。彼らはアッシリアの大王によって捕虜にせられ、捕囚とされるであろう、というメッセージがこの徴にあります。彼らは厳しい寒さに曝されるだけでなく、道端の観衆の嘲笑に満ちた目にも曝されます。

しかし、パレスチナ諸国が頼りにしたエジプト人とクシュ人の将来におけるその姿は、これを頼りにする者たちの姿をも示すものとして理解されるべきです。

紀元前669年にアッシリアのエサル・ハドンが下エジプト地方を占領し、663年にアブリ王が上エジプトを占領することによって、エチオピア人が打ち立てたエジプトの第23王朝を滅ぼしました。イザヤの預言はこうして成就しています。

6節において海辺の住民のことがはっきり言及されていますので、5節に言及されるのはペリシテ人以外のグループを示しているものと考えられます。その中には、当然エルサレムとユダの人々が含まれています。

彼らは打ちひしがれて、その望みは台無しにされたままで生き残っていますが、この事件に直接関係したペリシテ人は不安に満ちて、ペリシテの諸都市がエジプトのファラオさえ屈伏させる侵略者にどうして立ち向かえようかと、今後の運命を思いやっている様子が6節に記されています。

しかし、この6節の「我々」には、ユダとエルサレムも含まれています。預言者が自らの恥を忍んで裸になり、はだしで歩き回って、同盟することの愚かさを説いて回ったとき、彼らはそれに耳を傾けませんでした。人間的な小賢しい知恵で、しかも確たるあてもないエジプトを頼りとして、反アッシリア同盟の運動をした者たちは、イザヤの象徴行為通りの恥をかき、エジプトもやがてアッシリアによって恥をかきます。人の思いの愚かさ、はかなさが語られ、この預言は終わります。預言者を通し、神が明らかにされる使信は、人に頼る者は必ず恥を見る、しかし人に頼まず神に頼るなら、神は必ずご自分の民を導かれる、というものであります。

この使信が諸国民に対する託宣の中で語られているところにまた、大きな意味があります。地上の王国とその力により頼む者は立ち行きません。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30章15節)と主は言われます。「しかし、お前たちはそれを望まなかった。」(同)ここにユダとエルサレムの罪が明らかにされています。神の言葉にのみ信頼を置く者は失望することがない、とイザヤは語りつづけます。預言者が恥辱を耐え忍んで伝えたこのメッセージを無駄にしてはなりません。

今日においてもこの使信は、わたしたちが主の前にどう生きるべきかについて、大きな光を投げかけてくれています。

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