詩編講解

61.詩編143編『朝を待つ祈り』

この詩編は古代教会が七つの悔い改めの詩編(この他に6、32、38、51、102、130)として数えているものの最後にあたるものです。しかし、この詩は悔い改めの詩編の類型に属しません。敵に脅かされている者の嘆きの歌に属します。この詩編の詩人は、外的にも内的にも助けなき状況にあって、神にその危うい命が守られるようにと祈っています。しかし古代教会がこの詩の特徴を悔い改めの態度の中に認めたことは間違っていません。なぜなら、人間は苦難に直面してこそ、神の現在の前で自分自身の罪を真剣に意識するようになるからです。2節において、「御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません」と詩人は表明しているとおり、自分もその中に含めて、「御前に正しいと認められる者は」一人もいないという認識は、その苦難の中で学んだ詩人の真実な叫びであり、罪の告白であり、悔い改めの表明でもあると理解することができます。詩人は、神の恵みにのみ支えられていることを自覚し、そこに全信頼をよせます(8節)。そして、詩人は自分の無力を知るゆえに、神に正しい道を教え、導いてくださるようにと祈ります。

この詩は四つの段落に分けることができます。

第一は、1-2節で、呼びかけです。第二は、3-4節で、外的、内的描写の伴う嘆きです。第三は5-6節で、信頼の動機が願いの準備となっています。第四は、7節から終りまでで、願いとなっています。

 

1.呼びかけ(1-2節)

苦難にさいなまれた詩人は神の真実と義に信頼して「主よ、わたしの祈りを聞いてください」と神に願い求めています。2節において表明しているように、彼は神の前では誰一人正しい者はいないことを知っていますから、自分の正しさの報償を期待して助けを求めているのでありません。彼はただ神ご自身が持つ真実に応じて、人間を救おうとしてやまない神の意志を見つめているのです。「あなたのまこと、恵みの御業によってわたしに答えてください」と祈るこの詩人は、救いが、祈り手の特別な状況を引き受け、神との交わりを求める人間の意志を真剣に受け止め、神の側からこれに応じることによってのみ成就するものであることを知っています。

この切迫した危機的な状況の中で、詩人の信仰の良心が目覚めます。祈りの中で神の御前に立つとき、祈り手は自分の罪を知ります。しかしそれと同時に、「神が一緒に裁判に出て行かれる」ことを認識します。罪は人間の本性に深く根差したところから生まれるものであるゆえ、その罪を人間の側から克服することはできず、神の前でその罪過が明らかにされるのを見ます。だから、「裁きにかけないでください」という祈りは、深刻な罪の圧迫の下にある自分自身も、神の法廷では、その裁きを免れ得ないことを知る者の叫びです。しかし、この彼の叫びは、神の恵みに委ねる道のみが自分に残された唯一の道であるとの認識をも示しています。この彼の祈りには、それゆえ神の前に打ち砕かれた者の罪の告白が含まれています。詩人は神の前に要求する者としてではなく、全く神に乞い願う者として立っています。

 

2.嘆き(3-4節)

罪を知る者、告白する者として、真の祈りを学んだ詩人は、3-4節において、神の前に自分の苦しみを訴えます。敵に迫害され、死に脅かされ、死人のように希望なき夜の闇に包まれている姿を嘆き告白します。外的なこの希望なき姿は、内的な勇気をも奪うものであることを告白します。「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中でくじけます」、と。神の助けなくば、信仰の内なる霊の力もなえ果てる。心はくじける。強くあることができない。その弱さを詩人は正直に告白します。人はそれほど強くない、だから内なる信仰の霊を、神から来る上からの霊の力によって支えられる必要のあることを詩人は深く感じ取っているのです。その助けがなければ、その闘いを耐え忍ぶことができないことを彼は知っていました。

 

3.回顧(5-6節)

なえ果てそうな内なる霊を支えるのは、特別な上からの力を待つことも大切ですが、その特別な力は既に示されているのを見ることも大切です。信仰の歩みにおいて、この神の恵みを回顧できる目を持つことはとても大切なことです。絶望の淵に立つ者が助けを求めて思い巡らすとき、最後の手がかりはここから必ず与えられます。なぜ、わたしはこのように惨めな道を歩んでいるのか、それは神の示された御心を求めなかった罪によるのではないかという反省を一方で与え、悔い改めへと導く力となる一方、神がその選びの民に表された歴史を同時に思い起こさせます。詩人の現在の状況は確かに全く闇におおわれているかもしれないが、過去の神の救いの歴史を回顧するとき、救いの希望の光が輝いて差し込んでくるのを覚えることができます。

神を礼拝し、その場にまかり出て神の救いについての御言葉を聞くところから、その希望は生まれます。礼拝の中で神の救済史を「ひとつひとつ思い返し御手の業を思いめぐらす」中から、主の民は力と慰めを与えられ、現在の苦しみに立ち向かう勇気を再び得ることができるのです。この祈り手にとって、歴史に重要で価値があるのは、人間の目から見た歴史の出来事、模範的歴史的人物の偉大な行為でありません。彼の目はむしろ、歴史上の出来事や人物を通して働く神の業、行為、行動に向けられています。

信仰に生きる者にとって重要なのは、あれこれの出来事を知ることでありません。生ける神についての証を知ることです。神がそれらの出来事において現在されたという事実です。そして、その過去の出来事が神の本質と力を指し示し、現在を生きる人間と交わる神の道を指し示すものとして、わたしという個人の生活の中に入り込んでくるのを見る信仰を与えることが重要なのです。信仰の目においては、過ぎ去った過去の時代の様々な出来事の背後にある神の現実と現在のそれとは、いつも一体です。

この詩編の詩人は、「いにしえの日々を思い起こし」「御手の業を思いめぐらし」つつ、神の現在というこの現実へと導かれたのです。長く追想すればするほど、詩人の魂は強く神を求めることになります。「あなたに向かって両手を広げ」は祈りの姿勢です。詩人の魂は今や、乾いた大地が恵みの雨を待ち望むように、神を慕い求め待ち望みます。ただ神だけを恵みの泉、命の泉とする信仰がここにゆるぎなく芽生え育ちます。

 

4.願い(7-12節)

神を求める激しい渇き、神への願いがいよいよ募るのを、彼はもはや押さえることができません。「御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です」という切実な激しい祈りは、詩人が神との交わりが最高の目的、唯一の幸福として認識した瞬間、彼が恐れたのは、それが死によって失われることでありました。詩人は単なる延命を望んでいるのでありません。こうして得た神との生ける交わりの喜びをいつまでも続ける可能性として、自分の生命が長く維持されることにこだわるのです。詩編詩人の信仰に見られる長寿のこだわりを、単なる現世的な延命思想と見るなら、それは、大きな間違いです。彼らは生きていて神との生ける交わりをそれほど深く信仰の目で捉え実感していたということの中に、わたしたちが持っていない信仰の深さをこそ見習うべきではないでしょうか。

しかし、この詩人は、勿論、自分の人間的無力を知っています。もし神の恵みが日々新たに臨まないならば、そして、もし行くべき道を神ご自身が彼に示されないならば、命の道に立ち帰ることは不可能であることを詩人は知っていたのです。詩人はひとりでその道を行くことはできないのです。そうであるがゆえに、詩人は神に全幅の信頼を寄せるのです。

「朝」は、旧約聖書の信仰において、神の贖いの時、慈しみと助けの時間を指します。朝を待つ彼の信仰は、神の贖いの時を待つ信仰の告白でもあるのです。

そして、「主よ、敵からわたしを助け出してください」と叫び求めることによって、詩人は、神のみが自分を敵対者から救うことができる方であることを告白しているのです。

悔い改めは、神の救いを求めるだけの信仰で留まりません。更に高い段階へと進むことを望みます。神に喜ばれる生活をしたいという強い欲求を産みます。「恵み深い神の霊によって」導かれる平安を彼は望みます。人間の弱さと抑圧が神に向かう道を妨げる現実を詩人は知っています。その弱さに抗して打ち勝つ力は神の恵み深い霊がたえず人間の傍らにあって、道を平らにし、自分自身の過ちゆえに躓くことのないように守る時にのみ克服できると、詩人は信じているのです。

だから、11節の「主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ 恵みの業によって わたしの魂を災いから引き出してください」という祈りは、単なる延命を願う現世に執着した命乞いの祈りなんかでありません。この生命の維持に関しても、祈り手にとって神が問題です。「神の御名のゆえに」救われることが大事なのです。神の真実がそれによって現されることが大事なのです。この詩編の詩人においては、自分の運命が救われるかどうかによって、神が彼にとって今なお現実であるのか、あるいは彼はこの現実から締め出されたままになるのか、という問題が決定されることになるからです。この点で彼の信仰の告白はこの世と深く結びつき、その中での可能性しか考えられていない点で、限界があります。

彼は同じ限界から、その敵が滅ぼされるまで、神が自分の現実を支配していると見られないのです。それを見ることによって自分が神の僕であることを知り、人々も認識してくれるであろうことを見ている点で、限界があります。しかし、単なる敵の裁きを望む報復が問題なのでなく、神が崇められることを願う彼の信仰は、わたしたちに信仰のあり方に重要な視座を与えてくれます。イエス・キリストの復活を知らないこの詩人の信仰の限界を見ることができると共に、信仰において、その生活において神が重要なのだというこの詩人の信仰の普遍的な価値を同時に見せてくれている意味で、教えられることの多い詩編です。

旧約聖書講解