詩編講解

58.詩編139編13-18節『神の全能』

詩編139編を歌った詩人は、人のすべてを究める全知の神を恐れて、神のもとから離れようと試みました。自分のすべてを知られているということは、平安であると同時に恐ろしいことでもあるのです。神がその罪に目を留められるなら、逃れることができないからです。そこで詩人は、「どこへ行けば あなたの霊から離れることができよう」(7節)と神のもとから離れようと逃亡を試みたのであります。しかし、神は天にも黄泉にも海の彼方の遠きところにも「そこにいます」遍在のお方であることを知りました。そうであるが故に、主の下から逃れることはできない、その審きの下から逃れることができないけれども、しかし同時に主は、「御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる」(10節)ゆるぎない助け手であることを知りました。そのことを知ることは、彼にいままで味わったことのない平安な心を与えました。

そして、詩人はさらに、この神に自分が創造され、母の胎内にあったときから知られていた存在であるという事を知って、神にまったき信頼を寄せて人格的に近づく道を歩む者となりました(13節)。

人間は生まれる前から神に知られている、そして、そのすべてを知り給う全能の御手の力によって自分が創造された存在であると知る創造信仰に目覚めます。そして、その創造信仰おいて、神がすべてを包括し、すべてを知り、すべてを支配し、歴史のどの瞬間も神の現実であり、どの場所にも神は現在されるということを知るに至ります。人間はそこから神との積極的な関係を獲得することができます。

この創造信仰において、あらゆる人間存在は自分のものではなく、まったく神のものであり、神無しでいるならば、自分は無なるものでしかないということをはっきりと知るに至ります。

それゆえ、人間は、人間に向けられた神の活動に目を向けることによってのみ、神の本質に近づくことができます。

だから旧約聖書の信仰において、神への問いは、抽象的理論的な神の存在が問題なのではなく、どこまでも神の現実が問題となります。神の現実支配は、実際的な事実の中に啓示される事柄として理解されます。

この詩編の詩人にとっては、創造者なる神の全能性の中にこそ、神の遍在と全知を知る鍵があります。時計の製作者が、時計を、時を刻むものとして作り、その仕組みのすべてを知っているように、神は世界のすべてを創られた故に、世界のすべてを知っておられます。その中に存在する生きとし生けるものすべてを知っておられます。

しかし、そのことによって神の本質のすべてが説明され、神の秘密のすべてが明らかにされるわけではありません。神は、被造物にとって、常に隠れた方です。その様な方として啓示された方です。それゆえ、神の秘密はどこまでも秘密であります。信仰者にも、その秘密のベールを脱がれるわけでありません。

しかし、詩人は「あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(13節)と神を賛美し、告白することによって、神に対し、自分の人生の秘密に対して知る内的な態度を獲得するに至ります。

詩人はこの告白によって、神への畏怖、感謝、信頼を表明しています。わたしは、まさしく神に造られた者であり、創造者である神と無限の隔たりのある存在である、と深く受け止めています。それゆえ、人生においてどのようなことが起ころうとも、それは神の現実であり、それに対し自分の存在を勝手に置き換えることのできないことを知っています。ただ神への畏敬の念をもって神の崇高な神秘の前におののきつつ、自分という存在が母の胎から生まれ出ること自体が神の奇跡として、神を称え告白することができます。だからといって、詩人は神を自分とは隔絶したお方としてのみ見ているのでありません。自分自身の存在が神の創造の奇跡であることを知っているゆえに、詩人は神へと自分が近づけられている存在であることを知り、勇気づけられるのであります。わたしの生命は神のみ手の中にある。母の胎内にあるときから、あの何も知らない幼児のときから、わたしの存在は神の中に隠されていたことを詩人は知っているのです。

それゆえ、この詩の初めにおいて抱いていた詩人の神への恐れの心は、信頼に変わりました。だからといって彼は神のすべてを知ったわけでありません。彼の目には隠れていても神を信頼しているのです。

15節において詩人は、「秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた」と、神の創造の業は人の目の隠れたところでなされるが、神はそこにもおられる、と告白しています。

詩人にとって自分の誕生の瞬間は秘密のベールに包まれたままであるが、しかし、それを神の創造の奇跡として信仰の目で捉え、自分の人生の始まりが「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」と、神の明るい光の下で知られていることを詩人は告白しています。詩人はこの告白によって自らを勇気づけることが出来ました。そして、「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」(16節)と、自分の人生のすべての日が「生命の書」に記されていることを知るに至ります。生まれ出る前から神の意志によって予め定められている命への選びに対する信仰を、詩人は神の創造の神秘を信仰の目で洞察することによって持つにいたりました。

そして、詩人は自分をその様に計らう神に、尽きることのない感謝と賛美を表します。彼はその信仰をもって、決して神の秘密をすべて知り尽くそうとその秘密の中へ分け入ろうとしません。彼は、神がご自身を隠されている限り、知ることのできないほど神が偉大で、無限の存在であることを知っているからです。また神がご自身を隠しておられる限り、それを探求することが赦されていないことも知っているからです。神は隠すことにおいて信仰を求めておられることを知っているからです。

神への真の信仰は、神に畏敬と信頼をもってその御前にひれ伏し、神が姿を隠されるときにもアーメンといいます。その隠れたる神の中に、わたしの生命の源なる力、わたしの人生を決定する唯一の力を認めるからであります。

旧約聖書講解