詩編講解

54.詩編137編『バビロンの流れのほとりにて』

森有正は、この詩篇の1節の言葉からヒントを得て、「バビロンの流れのほとりにて」という題のエッセイを著しています。この詩は、紀元前587年のエルサレムの征服と破壊の辛い日々を体験し、バビロンに捕囚として連れ去られた人々の苦難と気持ちを赤裸々に告白しています。森は、自身の生き方とイスラエルの苦悩の体験とをだぶらせてそのエッセイをつづっていますが、この詩編の詩人は、今や故郷エルサレムに帰り、まだ瓦礫の中にある町を前にして、心の奥に潜む感情、体験を一気にぶちまけています。

捕囚の民として自ら経験した激しい憤りを言葉にしてぶちまけることのできないその深い悲しみを、詩人は1節において歌っています。

バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしは泣いた。

詩人は、同胞とともに故郷から遠く離されている深い悲しみをバビロンの流れのほとりに座して、かつてはシオンの聖所において神を賛美するときに用いた竪琴を、今は愁いに満ちた気持ちを表すために響かせて、嘆きの歌を歌ったというのです。

この詩人の魂をむしばみ、心を痛めさせた本当の理由は、故郷から遠く引き離されているという望郷の思いからくるものではありませんでした。その苦しみは、神が我が同胞の民のところから遠く離れておられるという思いに支配されて一層増しました。かつて主の民の一員として神殿の祭儀に加わって、神の臨在を確信することができたけれども、今はそういう機会を奪われてしまったからです。その上更に、神からすっかり見離されてしまったのか、それともまだ神に近づく道が残されているのか、という不確かさが彼を一層苦しめたのです。

しかし、捕囚の民はこの悲しみにひとり静かに浸ることさえ許されていませんでした。捕囚の民は、声をひそめて嘆き、竪琴を柳の下にかけました。それは、彼らを苦しめる者たちが近づく足音を聞いたからです。

その悲しみを3節において次のように歌っています。

わたしたちを捕囚にした民が 歌を歌えというから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」というから。

バビロンの支配者たちは、その力を誇示するために、残酷にイスラエルの捕囚の民を冷笑しながら、捕囚民に対して竪琴を用いて陽気な歌を歌えといって歌わそうとしました。異教徒の慰みのためにシオンの歌を一つ歌えというのです。

この要求に対して、イスラエルの男子たちは聖なる憤りを感じて、

どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。(4節)

と歌い、この途方もない要求を拒みました。彼らはバビロンの人々の自分たちに対する冷笑は、主の栄光に関わるものであると見抜いていました。ヤーウエのための賛美の歌が異教の群集の慰みの手段に貶められるならば、神の聖が汚されることになります。聖なる神への畏れが、この囚われ人の魂を誇らかな畏敬の念へと高めることになりました。ここには、山上の説教において主イエスが「聖なるものを犬に与えるな」「真珠をブタに投げるな」といわれた言葉を想起させる信仰の真摯な態度がここに見られます。

5、6節は1人称単数形となっています。

エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムを
わたしの最大の喜びとしないなら。

これらの問題を通して、個人としての主への責任・信仰が問われていると、詩人は強く意識しています。エルサレムを忘れ、主のために歌う賛美の歌を、礼拝賛美のために用いる竪琴を、異教の民を喜ばせるために用いるくらいなら、竪琴を弾く右の手が萎え、舌は上顎にくっついて用いられなくなる方がまだよい、と詩人は歌っています。

シオンの厳しい運命を彼は決して忘れません。そして、その再建を夢見ることは、彼の喜びの冠となりました。詩人にとって、故郷を敵の蔑みに渡すなら、それは祖国への裏切りとなると思われたのです。そして、エルサレムから思いをそらすことは、神を忘れることを意味していました。彼は今、エルサレムの没落した姿を見ています。そして、あのバビロンで受けた屈辱の思いをバネにして、祖国再建への決意を新たにしています。そして、その切望される再建の中に、彼は、生ける神の啓示されることを信仰の目で見ています。

その信仰の思いで7-9節にかけて神に向かって語ります。ここで危機にさらされているのは、エルサレムでも神の力でもありません。主の民イスラエルの神の力への信仰にほかなりません。最後の決断を誰が行うのか、高ぶって神を嘲り冒涜する人間か、嘲ることを許し給わない神かが、信仰によって証明されようとしているのです。

それゆえ、詩人は神の罰が敵の上に下るように切に祈ります。彼は単純に自らの辱めのために神の復讐を願っているのではありません。主が辱めを受けていることに彼は我慢がならないのです。自らの名誉の回復によって、何よりも神の名誉が回復されることを彼は願うのです。それこそが彼の願いであり、信仰の祈りでありました。この詩人には、煮えたぎる憤りを和らげ、押さえる力も、意思も、もはやありません。人は受けた辱め、屈辱を簡単に忘れることができません。彼もそのような人間の一人として、それを忘却できない感情を赤裸々に告白し、彼は恐るべき残酷な叫び声を上げて、バビロンが完全に滅ぼされることを祈っています。しかし、そこにあるのは彼の個人的な激しい復讐心でだけではなく、それを突き抜けた彼方に、神への信仰の祈りがあることを読み取ることが何より大切です。

旧約聖書講解