詩編講解

52.詩編128編『主を畏れる者は幸いなり』

この詩編は、主を畏れ、主の道に歩む人の幸いを歌っています。作者は、その祝福の言葉において、人としての正しい生活とまことの幸いの基盤は、神への畏敬であり、神の道を歩むことであると語ります。神を畏れ敬うことによって、神を人生の主とし承認する人間の謙虚な態度がここに歌われています。神は御言葉において人の歩むべき道を示し、その示された意思に従うよう求めておられます。それゆえ、人間はこの神の御言葉への服従において、神を主と認めて生きる者であることを告白することになります。自分が何を信じて生きているか、その服従の姿において告白することになります。

そして、神が生命の主であるならば、神の力は、まさに神の定める生の秩序が人間によって守られるところで、祝福として働きます。人は、自分のために生きることが幸いで、正しいことではなく、命を授け、生きるべき正しい道を示される神に対して生きる、そこに人としての幸いがあり、神の祝福が表されます。

そして、神の祝福は、人間生活の最も基本的な日常性の中に表される、これが詩人の素朴な信仰の確信です。人間の労働が労苦の伴うものになったのは、神の意志を喜ばず、御言葉に聞かず、人間が自分で良いと思う判断にしたがって生きようとした罪の結果です。祖先アダムは、罪を犯した後、主から、

お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。(創世記3章17-19節)

という呪いの言葉を告げられました。

主を畏れ、主の声に聞き従うという、本来の人間の正しい生き方をしていたならば、食べること働くことが労苦の伴うものではなかったことを、わたしたちは、改めて覚えさせられます。詩人は、その人間の根源に立ち帰って、主を畏れ、主の道に歩む者の幸いを、

あなたの手が労して得たものはすべて
あなたの食べ物となる。
あなたはいかに幸いなことか。
いかに恵まれていることか。(2節)

と歌っています。労働は労苦の多い、辛くしんどいものではなく、それによってもたらされる恵みを十分享受できる幸いが歌われています。勿論、この詩人は、現実にある労働の労苦を知らない無邪気な楽天家ではありません。しかし、彼の目は、その労苦が何によってもたらされたかを洞察する力を持っているがゆえに、主を畏れ敬い、その御言葉に聞き、主の道を歩むことだけに心を砕いて生きる者に与えられる祝福、幸い、も洞察することができるのです。労働は、神なしになされるなら、祝福はなく、むなしく労苦のみ多いものとなる。しかし、主を見つめて生きる者の労働には、幸いが豊かにあると詩人は語ります。

そして、「主を畏れ、主の道に歩む人」に与えられる幸いは、それだけに止まりません。家庭生活においても豊かな神の恵みに与ることを許されます。

彼は、妻が母親として、子供たちを育て、正しく成長させるその姿を、豊かに実を実らせるぶどうの木に喩えてたたえています。勿論、彼の妻も彼と同じ主への畏れを持ち、主の道を歩む人として、子供たちをしつける人です。

彼は妻と子供たちと、いつも一緒に食卓を囲み、楽しげに語らいながら食事をします。楽しげに食卓に集まる子供たちの姿を、彼は、オリーブの勢いの良い若木に喩えています。聖書において、ぶどうの木も、オリーブの木も、神の祝福の賜物として語られています。このような妻子を喜ぶことを、詩人は神への喜びと感じ、家庭に与えられる幸せを、神の祝福として、感謝をもって認めています。祝福は、この詩人のような、それを受け止める神への態度をもって、始めて幸いと感じ、本当に祝福となります。

神の祝福がこのように豊かに与えられているのに、それを感じない鈍感な人もいます。その愚鈍さは、主への畏れ、主の道を歩むことへの喜びと熱情を欠くことに原因があります。

しかし、この詩人のように神に心を開いて、神に献身して生きる者には、その幸いを深く受け止める喜びが与えられます。まことの祝福は、神への畏敬が支配し、その畏敬の念が家族全員を支配し、内から支え、互いに神への畏れによって結び合わせられている家族に与えられます。

「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」という言葉に、この詩人の信仰の確信があります。

そして、旧約の聖徒にとって、祝福は生涯エルサレムの幸いを見ることができることにありました。主の民が主に生かされていることを一緒に喜び合えるのは、心を合わせて主を共に礼拝する時です。そこで一緒に主の言葉を聞き、同じ祝福のもとに生き、喜んでいる姿を見る時に、信仰の共同体の喜びが増し加えられます。ここに彼の信仰が単なるマイホーム主義の幸福感と、一味もふた味も違う姿があります。信仰を同じくする、同じ主を畏れて生きる者の幸いを祈り願い、同じ祝福に共に与りたい、与って欲しいという彼の信仰があります。わたしたちもそのような主を畏れ、主の道を歩む幸いな者でありたい、信仰の友との同じ祝福を共に味わう者としての歩みをしたいと願います。

旧約聖書講解