詩編講解

50.詩編103篇『我が魂よ主をたたえよ』

この詩は、聖書信仰の木に咲いたもっとも清らかな花の一つである、と言われています。この歌は、その根を聖書の敬虔の最も深いところに下ろし、高貴な、澄み渡った響きをもって神の恵みを歌い上げ、何世紀にもわたって文学や人生を豊かにしてきました。この詩人は、人生の苦難と罪の苦しみを通して神の恵みの光り溢れる中に導き入れられたという自らの経験から語っています。詩人は、その経験から、聖書の偉大な信仰者たちが語る神の本質と現実を悟りました。

この歌は、次のような構成になっています。

① 1-2節は導入部で、神をほめ讃えよ、と自分に賛美を促すことから始まります。
② 3-5節において、神の恵みの個人的体験が語られます。
③ 6-13節において、歴史と伝承における神の恵みが回顧されます。
④ 14-18節において、人間のはかなさと神の永遠性が対比されます。
⑤ 19-22節において、結びとして、全能の神の王としての支配に対する被造物全体の賛美へと導かれます。

① 導入(1-2節)

普通、賛美の歌の導入部は、合唱隊または礼拝の会衆に神を賛美せよと呼びかけるところからはじめられますが、この詩人は、自分自身に対して促しています。この詩人には、神の前に出て、魂を神の生きた力に委ねようとする聴従の意思があります。礼拝者は祭儀の場において、生き生きと現在される神に出会い、神をしっかりと知ることを許されます。これは神を礼拝する態度の本来的な心の動きであります。全人格がこの態度において神に向かうのであります。この態度は次の二重の意味における信仰から生まれます。即ち、礼拝者が神の聖に畏敬に満ちた恐れをもって立つ信仰と、神の救いの業から明らかになった神の愛により頼む信仰から生まれます。

この詩人は、自らの罪を意識せざるをえない卓越した聖性、高さをもつ遠い神を知っています。と同時に、愛をもって受け入れる近い神を知っています。しかし、信仰におい遠い神と近い神は対立しているのではなく、同一の現実として捉えることができるのであります。

神は、正に己の無に沈んでいる人間に対して、恵み深く身をかがめられるお方であります。それは、人間の考えからは想像できないほど遠い、崇高な、理解を絶する卓越した愛から表わされる神の行為であります。人間には破局しか見えないところに、憐れみによる橋を架けるところに、神の究極的な「神らしさ」があります。罪人に対する愛において、神の至高の聖性が明らかにされているのであります。この愛は聖なる神の愛であることによって、その卓越した力と贖いの働きをしているのであります。この詩人と同じ深い神認識を預言者ホセアはホセア書11:8-9に示しています

この詩の最初の二節に打ちだされた主題は、最後まで響きつづけています。「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」という自戒は、聖なる神の憐れみと愛に取り囲まれているという意識によって魂を揺さぶり、目覚めさせるためであります。

② 神の恵みの個人的体験(3-5節)

詩人は神に対して開かれた魂において、神の偉大さについての思いが圧倒的な力で押し寄せて来るのを感じています。彼の目には、すべてが神に担われているので、人間の目に暗黒としか見えない罪と病と死においてこそ、神の恵みは最も輝き、人生はその光によって照らされたものとして映ります。詩人は、信仰において、神の現実をその様に捉えているので、人生の意味が様変わりし、新しい励ましと力を得ているのであります。詩人の信仰は、罪の赦しを基点とすることによって深い自己省察へと導かれます。彼は、罪のゆえに神から遠く離れているならば、人生に成功はないということを知っています。だから、神自らがあらゆる咎を赦して、最大の障害を取り除き、それによって自分の人生を新しい土台の上に据えてくださったという確かさが、彼の信仰の最も大切な拠り所となっているのであります。

詩人は、病気と死によって、生命が脅かされている時も、その危険から恵みによって助け出してくださる神の御手の中に安らかに守られていることを知っています。これは単に彼の助けられた経験に対する感謝からでた言葉ではありません。それは、将来においても神の愛に取り囲まれているとの確信と、神への信頼から発する言葉であります。

赦しの神、恵みの神に目を開く信仰には、常に希望を持って生かす新しい力が与えられます。それを詩人は、「鷲のような若さを新たにしてくださる」と、歌い上げているのであります。

③ 歴史と伝承における恵みの神(6-13節)

詩人は、ここで自身の体験を越えて、恵みと愛が神の本質から発することを理解します。ここでは常に神が主語であります。これまでとは違って、神賛美は、詩人が何かを神に負っているというところから発せられるのではなく、それ以上に神自身のためであることが明らかにされています。この見方は、契約共同体の祭儀観念から生まれたものであります。祭儀の場で生き生きと示された神の救済行為の伝統が詩人の信仰の出発点であります。と同時に、それは、彼自身の体験を重ねて見る大きな枠でもあります。彼は、祭儀伝承のなかで伝えられた歴史における神の救いの業を、自らの現実をも解決する力と見、反対に自らの現実に働く神の救いの業を、祭儀のなかで伝えられた歴史における神の救いからその意味を理解しているのであります。

彼が神の救済史から知らされたことは、神の義であります。神の義がすべての出来事の公分母になっているということであります。彼にとって、神の義とは、抑圧された人々を助けるという神の愛と恵みとが常に変わらずある、ということであります。出エジプトにおけるモーセに対する神の計画と意思の啓示において、神の義が恩恵として与えられるものであることが明らかにされました。その線はイスラエルの全歴史を貫くものとして理解されているのであります。

それゆえイスラエルの民の歴史は、彼にとって神の恵みの証明であります。彼はこの神に向けられた視線において過去を見つめ、現在働く生き生きした神の救いの力を見ているのであります。それゆえ、8節の「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい」という言葉は、救済史から得た彼の信仰の言葉であります。

救済史の中で培われた信仰の認識は、9、10節においてさらに深められています。神の義は、報復を基調とする狭い人間社会の正義感からは捉えがたい高さ、深さ、広さを持っています。しかし、神は罪を曖昧にする方ではありません。神は、するどく信仰の良心に問い、その自覚を促されます。けれども、それは、赦しの恵みのなかで取り囲む愛の神行為としてなされるものであります。それゆえ、罪の深淵を知ることなく神の恵みを知ることはできません。詩人は、恵みは罪よりも大きく、神の愛は神の怒りよりも強いことを認識しているのであります。

11節は、イザヤ書55章8-9節を想起させる言葉であります。詩人はこの言葉において、人間の想像を越えた比較を絶する神の恵みに対して、人間の無力を証明しようとしています。しかし、天と地との隔たりも、人間の罪の世界と、罪人を受け入れる神の恵みの現実との隔たりを説明するのに十分でありません。

それゆえ、詩人は、神の愛を、父性愛として描いています。まことの父性愛は、子供を決して見捨てず、強い手をもって導き、子が罪を犯すとき、厳しく叱るけれども、背後に強い憐れみを秘めており、畏怖の念を抱かせ、その愛の下へと立ち帰りを促すのであります。

④ 人間のはかなさと神の永遠性(14-18節)

人間が塵から生まれた存在であり、草のようにまたすぐ枯れる花のようにはかなく、神の憐れみなしには生きられないことを、神は知っておられます。創造者なる神が、そのような被造物を憐れまれること、それがまさしく神の恵みの奇跡であります。それに気づくのは、自らの生の被造性を自覚するものだけであります。
それに気づくものは、神の究めがたい偉大さ、救いの御業が現れるのを知っているのであります。神は、このはかない存在でしかない人間に、その恵みの永遠の力を表されるのであります。「主の契約を守る人」に、賜物として神の永遠の恵みに与からせるのであります。

⑤ 結び(19-22節)

詩人は、さらに歴史の枠を越えて、宇宙における神の全能を感じ取り、賛美することができるようになりました。時間と空間の制約は、神の臨在への信仰によって超えられていくのであります。礼拝祭儀における神の現臨を信じる信仰は、同時に、宇宙の王としての支配者である神を、崇高な天の玉座の上に見ることができるのであります。

神にふさわしい栄光を帰するには、賛美の歌い手はひとりでは足りません。そこで詩人は、御使いたちに賛美に加わるよう呼びかけています。すべての造られたものにも呼びかけています。「わたしの魂よ、主をたたえよ」と。

旧約聖書講解