詩編講解

49.詩編125編『主はご自分の民を囲み』

この詩編は1-2節において民の加護への信頼の告白が歌われ、3節において信頼の勧めが歌われ、それに4-5節に祈願が付け加えられています。

この詩編の作者は二つの譬によって、信仰の危機にさらされている民に神信頼に生きるよう目覚めさせ、沈んだ希望を再び打ち立てる勇気を求めるよう促しています。

まず詩人は、神に信頼する者を、揺らぐことなく永遠に続く神の護りの象徴であるシオンの山になぞらえています。イスラエルの信仰によれば、シオンは大地に深く根を下ろして、揺らぐことなく立っています。そのようなシオンの不動の確かさが、神信頼の一つの特徴を指し示すものであると理解されています。神の護りであるシオンが揺るがないだけでなく、神信頼に生きる者の信仰はシオンの山のように揺るがない、これがイスラエルの信仰の理解です。

他方、旧約聖書の信仰によれば(エレミヤ28:16参照)、神の約束もまたシオンの上にあります。シオンは同時にイスラエルの救いと永遠の希望の目にみえる保証でありました。だから神信頼と永遠への希望とは互いに切り離せないのです。

第二の譬は、山々に囲まれ、要塞のように防壁に保護された町エルサレムの状態を描写しています。この譬は、今や困難な状況にある民のその「状況」の象徴となっています。

エルサレムでは山々が取り囲み、自然の要害をもって敵の攻撃から護っているように、神の臨在がその民を前から後ろから取り囲み護り抱くゆえに、「今も、そしてとこしえに」シオンは堅固な城でありつづけます。その民を護り保とうとする変わらない神の意志こそが、神への信頼の現実的な基盤となります。

「主はご自分の民を取り囲んでくださる」という事実を信仰の目で見ることのできる者は、現実に四囲を敵に取り囲まれていても、希望と平安を保つことができます。主のご自分の民を取り囲む護りの御手は、一時的なものでも、暫定的なものでもなく、「今も、そしてとこしえに」続くものであると確信する信仰には、いつも希望と平安が与えられます。

しかし、そのことを確信するものは、もはや祈る必要がなくなるのではありません。そのことを確信するがゆえに、ますますその変わらざる主の護りの意志を祈り求め、その御手の護りによって、主に逆らう者の攻撃の手が及ばないように、主に従う人が悪に手を伸ばすことのないようにと祈り、信仰の友に対して励まし勧めることを怠りません。

この祈りの言葉は、わたしたちの実際の信仰のあり方を考える上で、非常に重要な意味を持っています。主に守られているから大丈夫というだけの考えに留まるなら、人は高慢になり、悪の誘惑に負けて、罪を犯す心の隙を作ることになることをこの詩人は知っています。だからいつも「悪の誘惑に負けて、罪を犯すことのないように」と祈り、一日の歩みを始めているというある長老の言葉を思い起こします。人は悪の手に染まりやすい自分の弱さを知り、このように祈り、一日を始めることによって始めて、その罪の誘惑と戦って、罪を犯すことなく、その日の歩みを終えるものであることを覚えたく思います。

主に従う人に割り当てられた地に
主に逆らう者の笏が置かれることのないように。

というのは、信仰の要請です。シオンの地はヤハウエの「嗣業」として選びの民に割り当てられたのなら、神は、神にのみあるはずの権限を僭称(せんしょう)する悪を、ご自分のために許すことができません。そうすることによって、神はその民の内的な信仰の危機から守り、「主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように」計らい守られるのです。

この詩編の詩人は、信仰の仲間たちが神信仰を失わないようにと祈りつつ、これらの言葉を語り、口述するのであります。ですから、この詩編の作者の目には、民への背信は、神への背信を意味しました。

これらの信仰の前提から、4-5節の祈願も理解することができます。神がまことにその契約に対して誠実で、真実な方であるかどうかは、主の契約に対して心をまっすぐにして忠実に生きる者を祝福し、よこしまに反逆する者に厳しい審判を下すかどうかによって、明らかになります。それゆえ、神の前に敬虔で、真実な祈りは、神が本当に神として賛美される救いがなされることを求める祈りです。

そしてこの詩人は、「よこしまな自分の道にそれて行く者を/主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。」と祈ることによって、結局、悪は主がそのようにご自身の支配の中で追放されるのでなければなくなる事はないと知っていますので、このように祈り続けるのです。

そこに人間の努力の断念があるのでなく、その戦いの勝利は、このような信仰からのみ与えられるものであり、イスラエルの上に与えられる平和、平安はその信仰の営みの中でのみ与えられることをこの詩篇は教えています。

旧約聖書講解