詩編講解

47.詩編121編『主に守られて』

この詩篇は、主へのゆるぎない信頼を歌っています。この詩編を通して、主に守られて歩んだ一年を主に感謝したく思います。

この詩の語り手は、目を上げて、山々を仰ぎ、不安な心で「わたしの助けはどこから来るのか」と問うています。彼は親しい家族や知人と別れ、これから一人で旅立とうとしていました。それは決して安全な旅ではありません。険しい小道や深い淵や谷間を歩き、野獣と盗賊の潜む山々を越えて旅をしなければなりません。そのことを思う時、愛する家族や知人との別れは辛く、助けを切に求めずにはおれない不安な心境に駆られました。

彼の家族も知人も彼と一緒に旅に出かけるわけでありませんから、その不安な気持ちを取り去って慰めを与えることは容易ではありません。この詩編はまた、病気や試練に立ち向かわねばならない人を、家族が見守り、知人が見守ることの難しさを同時に教えてくれます。

この詩人は、そんな不安な気持ちを抱きながら、山を見上げ、これを創造された神に目を向けました。するとその時、山々がどんなに危険に満ちていても、どんなに多くの困難が待ち受けていたとしても、神がその一切を創造されたのであれば、神はこの歴史をも支配し、わたしの困難、危険からも助けることができるはずではないかという信仰の目が開かれて行きました。そうだ、誰もこのわたしの不安な気持ちを和らげてくれることは出来ないけれども、しかし、「わたしの助けは主から来る」のだ。この危険極まりないと思われる山々、わたしの目にはそこには多くの困難と危険しか見えないけれども、この天と地の中に満ちる一切のものは、これを創られた神の支配の下にあるから、そこにも主の目が行き巡らされ、主の手が伸ばされてわたしを守っていてくださっているのだ、と彼はこの事実を信仰の目でしっかりと捉えることが出来ました。

「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」というゆるぎない信仰はこうしてこの詩人のものとなりました。

現実の困難にだけ目をむけ、そこに目を奪われて生きている人には、自分に向けられている神の助けを見ることはできません。讃美歌の301番はこの詩編を歌った歌でありますが、この讃美歌は良くありません。この讃美歌の作詞者は別所梅の助という方で、仏教の僧職をされていた方です。助けは「天地(あめつち)の神」から来るのでありません。「天と地を造られた主のもとから」来るのです。天地は、わたしたちの目から見れば、おどろおどろしい不気味な面を持ちます。天地を造られた、天地を超えて今もなお支配しておられる神、このお方が天地という自然や社会の中に取り込まれて、出口を見失いそうな私たちに、出口を示し、正しい旅をできるように導きを与えてくださるのです。神が危険の中を歩む私たちにたえず関心を持ち、変わらない導き手であることをわたしたちは、信仰において見ることができます。

天地を見上げ、そのかなたにいます神から助けが来ることを信じるということは、そのかなたからわたしたちをご自分の民とし、約束の言葉を持って守ると約束された主が守り手としてこられるということを信じることであります。そして、主は遠くから守り手としてこられるだけでなく、また同時に近くいまし、その助けをたえず実現できる神としていてくださるということを信じるということでもあります。

この詩の語り手に対し、家族や知人が語った慰めの言葉は、「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように」というものです。その家族がこのように語りえたのは、彼が天地を造られた主が、今も歴史を変わりなく支配している摂理の主として近くいましたもうことを信じていたからです。信仰なき人の病床を見舞うことは大変苦しいことです。その人に向かっては慰めとなる言葉がないからです。事態を信仰の目を持って見ることのできる人には、この詩人の家族のように慰めを語ることが出来ます。

わたしたちにとってどんなに辛い一年の歩みであっても、互いが主への信頼の中に生きているならば、このように主にある平安を語り合えることができます。

「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」

何と慰めに満ちた言葉でしょう。わたくしたちは不安な思いで、夜、床につくことがあります。危険と承知しながらも疲れてまどろんで歩いて足を滑らしそうな時もあります。しかし、たとえわたしたちがその様な危機の中にあっても、わたしたちの主はまどろむことも、眠ることもなく見守ってくださっているというのです。

この詩編は、わたしたちが怠惰に何もしなくて良い、どんなに悪いことをしても守られる、ということを歌っているのではありません。それぞれがおかれているところで、注意深さと主にあるものとしての御言葉に聞くふさわしい歩みを求めています。けれども、わたしたちは夜眠らねばなりませんし、疲れてまどろむこともある弱さを持つ存在です。しかし、主はその様な状態にあるわたしたちに、まどろむこともなく、眠ることもなく見守る方として常に居まし、敵から守ってくださっているのです。

パレスチナ地方の日中の日差しはとても強く、強い日差しの中を無理して歩くと命を失うことさえあります。ヨハネ福音4章に罪深い生き方をしていたサマリアの女の物語が記されています。彼女は最も日の光の強い時間に水を汲みに行っている光景がそこに描かれています。普通、人はそんな時間を選んで水を汲みに行きません。汲んだ水は大半乾燥して失われますし、その暑さは危険だからです。この女は人目を忍んで日中水を汲みに来たのです。「昼、太陽はあなたを撃つ」とは、それほどまで強い光の強さを知る者に向かって語られている言葉です。主は、差し伸べて広げられる御翼の陰で、旅人を覆い、その強い日差しから守ります。その様に私たちをいつも配慮し守る主の御翼がわたしたちにも広げられています。

5節に「あなたの右にいます方」と言われていますが、これも大変慰めに満ちた言葉です。人の「右」は、詩編109編31節によると、裁判の時に弁護人が立つ位置です。主は貧困に喘いで財産を失い、身を寄せるところを失った貧しい人間の弁護者として「右に」立ってくださいます。また、罪を犯して落胆している者の右にも立ってくださいます。また傷つき、病み、倒れそうな人の命の弁護者として、その人の「右」に立ってくださいます。

だから、彼の家族は「主がすべての災いを遠ざけ、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。貴方の出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」と彼のために祈りました。祈る者も祈られる者も、「右にいます方」の守りを信じて、この方に全存在を委ねているのです。この全世界と歴史を支配しているのは神であるからです。そして、この神はわたしたちの「右にいます方」として、まどろむこともなく、眠ることもなく守っていてくださるからです。

主イエス・キリストはその様な方として、わたしたちの歩みを守ってくださっています。今、主イエスは復活されて天におられますが、この復活の主は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と仰せになり、また、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と仰せになられます。救い主は、この様にいつもわたくしたちの「右にいます方」となっていてくださるのです。この救い主に感謝です。まどろむことなく、わたしたちの右に居て守ってくださる主に感謝し、信頼し互いに祈り合いながら歩みを始めましょう。そうすれば、詩編32編10節に「主に信頼する者は慈しみに囲まれる」とありますから、主の慈しみの御手に取り囲まれて歩むことができるでしょう。

旧約聖書講解