詩編講解

46.詩編95篇『新たな献身への招き』

この詩篇は、礼拝の招きの言葉としてよく用いられる詩篇の一つです。実際、イスラエルの礼拝においても、祭儀がはじまる前に用いられました。特に、新年の契約更新祭の際に用いられたといわれています。

この詩篇の内容は、大きく二つに分けることができます。
第一は、1-7節前半までで、感謝と讃美が歌われています。
第二は、7節後半から11節までで、主の言葉に聞く献身への呼びかけとなっています。

この詩は、恵みの神の御前に出る喜び、感謝への呼びかけをもって始まっています。1節の言葉とともに、礼拝する者は、喜びと感謝に満たされて主の御前にまかり出るようにと招きがなされています。

続いてその理由が、3節のように述べられています。
礼拝する者が主に感謝し喜ぶべき理由は、主なる神の偉大さにあるということが第一に述べられています。

そして、4-5節において、創造者として主は、全てのものを支配される方であるとの告白がなされています。これだけで十分主なるヤハウエが礼拝されるべきお方であると考えられますが、この詩篇は、主を礼拝すべき中心的な理由をもっと別なところにおいて述べられています。

主なる神が創造者として偉大で賛美されるべきかただというイスラエルの信仰は、彼らにご自身を啓示し、主が彼らを選び、ご自分の民とし、彼らを哀れみ、ご自身の羊として養い、守られたという救いの体験を元にして理解されています。しかもこの神は、この世界を創造された方であるがゆえに、自分たちをそのように救うことができるというより高い神への認識と告白を導きました。

この認識の順序が示している事実は、イスラエルにおいて神は、創造者として最初から知られていたのではなく、神が自由な恵みによって一方的に憐れみ、選び救ってくださったのだという救済者として神を知ることが先行していたということであります。

ですから、この詩篇の中心は、7節の言葉にあります。
このイスラエルの救いの体験を語る言葉こそ重要であります。この体験、この体験をすることを許してくださった神の言葉こそ、自分たちが何はさておき第一に聞かねばならない言葉である、とこの詩篇は力強く告白しているのであります。

この主なるヤハウエは、世界を創造された神で、この神の支配の下でイスラエルは救われ、選ばれ、主の民として、今日、在るのであります。それゆえ、主なる神のなされた御業のすべてが礼拝において告白され、讃美される必要があるのであります。

イスラエルは主なる神の恵みの中を歩み続けるために、その信仰の認識をもって、この救いの神の言葉に聞き従わねばならないとの招き、促しがなされているのであります。

私という人間が神のみ前でどういうものであるか、わたしたちが神の御前でどういう民であるか、自己確認、アイデンティティーの確認が絶えず新しくなされる、これが礼拝における重要な要素であります。礼拝というのは、その様な神の前における契約更新のときであります。

この契約更新際で特に覚えられたのは、出エジプトにおける、「水の問題」をめぐり、イスラエルが示した不信仰の問題であります。海を渡ったイスラエルは、水の得にくい荒野を旅しました。それは、イスラエルが主への信仰に生きるための一つの試みでもありました。

しかし、この試されている民が、神を試みる愚に出たのが、メリバとマッサにおける出来事でありました。

この二つの地名は、その土地にあった井戸の名から来ているといわれています。水の少ない荒野において、その所有をめぐって、人と人との間でしばしば争いがおこりました。メリバ(争い)、マサ(試し)という井戸の名は、井戸に依存する荒野の諸部族がそこに集まって、裁きや調停をしたので、その名がつけられたのであろうとの注解者の意見もあります。

しかし、イスラエルにおいて、それは、人と人との争いではありません。自分たちを救ってくださった主なる神に対する争いであり、試みでありました。主の驚くべき救いの御業を見ながら、主を試みたイスラエルの歴史がここで回顧され、四十年間荒野を彷徨わねばならなかった民の罪の原因がここで究められているのであります。

それは主の言葉、主の約束を信じて聞き従わなかった民にとっての苦い体験でありました。しかし、主なる神は、それでもこの民のことを厭い、憐れみの目を注ぎ続けておられるお方であることを、この詩篇の作者は知っているのであります。

7節の「今日こそ」という言葉は、8節の「あのとき(日)」のことと見事なコントラストのもとに置かれています。

「今日こそ」という新たな決意の下に、献身を誓い、主の前に共に歩むものとなることを、主なる神はわたしたちに求めておられるのであります。

旧約聖書講解