詩編講解

44.詩編115編『主の御名に栄光を帰し』

この詩編は、「わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄輝きますように あなたの慈しみとまことによって」と神の御名と栄光を祈り求める言葉で始められています。そして、この言葉は、そのままこの詩編の主題となっています。

このように神の御名を呼び求め、御名に栄光を帰し奉る会衆は、現在、「彼らの神はどこにいる」と国々の民から問われています。古代近東において、このように問うのは、戦いに勝った民が戦いに負けた民に対してでありました。戦争は神々の戦いであると考えられていましたから、戦争に負ける側には神がいないからだという当時の理解が、この言葉の背景に存在します。

詩編42編の作者が同じように「おまえの神はどこにいる」と問われて、その魂がうなだれ、激しい苦しみに襲われた経験を告白しています。42編の作者は、自ら犯した罪のため、主の民と共に守る祭儀の場に出ることを許されず、いつ出ることができるかを願いつつ、激しい悔い改めと待ち望みの中にありました。その様な待ち望みの苦しみの中にあるものにとって、異邦の民からおまえの神はどこにいるのかと問われることは、自分の罪をののしられるより恥ずかしい悲しい出来事でありました。本当に真剣に神を待ち望む、契約の民にとって、おまえを救う神がいない、その不在を問われること以上に悲しいことはありませんでした。

この115編における民の状況は、恐らくバビロン捕囚という出来事が背後に存在していたと考えられます。その時、捕囚の民とイスラエルが経験したのは、イスラエルには神がいないからだという嘲笑と軽蔑の声が諸国から聞こえるという体験でありました。

しかし、神の契約の約束と真実を知るこの詩編の作者は、そのような諸国の民からの嘲笑の言葉を聞き、ここでその深い悲しみと嘆きを表明しているのでありますが、彼の嘆きは、自分が恥辱されていることに対する嘆きではありません。彼の嘆きは、自分たちの罪のために神の名誉と栄光が傷つけられていることに対する嘆きでありました。

そして彼は、そのような辱めの中にあってもなお、神を礼拝することを止めません。止めることができなかったのです。彼は神の契約とその真実を疑わなかったからです。彼は、諸国の民からの「彼らの神はどこにいる」との恥辱の言葉に対して、神に栄光を帰す礼拝によって答えようとしています。彼は、その礼拝において自らの名誉の回復を願うことを第一とするのではなく、神の名誉の回復をこそ第一として願ったのです。

捕囚の民において、問題なのは、神の誉れです。そして、捕囚という特殊な状況でなくても、やはり、礼拝において大切なのは、神の御名が崇められ、その御名に栄光が帰されることであります。栄光に輝く神の前に我が罪を告白し、悔い改め、深くへりくだることです。民の罪が異教徒にイスラエルには神がいない、イスラエルの神には民を助ける力がない、と神の力に対する疑いが持たれ、御名を汚すきっかけを与えたことを、民は悔い改めねばならなかったのです。そして、その汚名を返上するためには、自らの悔い改めによっても不可能でした。現実に、もし神がご自身の栄光を表してくださるのでなければ、彼らは、神にふさわしい誉れを帰すことはできないことを、よく知っていたのです。

神の名誉、栄光を回復するのは、罪を犯したイスラエルではありません。それは、神ご自身のなさる業です。このように自らの栄光を回復させるために、イスラエルにご自身を再び啓示し、この民を顧み、そこから立ち上がらせる主、このような神こそたたえられ、崇められるべきなのです。

この詩編の詩人は、偶像の神を礼拝する異教徒の「彼らの神はどこにいる」との問いに、「わたしたちの神は天にいまし 御旨のままにすべてを行われる」(3節)と答えます。神は人の手で作られた存在ではなく、むしろ、この世界に存在するすべてのものを創造された創造者として卓越した力を持っておられ、被造物を隔絶した高いところから支配し、その主権を行使されている姿を、この詩編の作者は、「わたしたちの神は天にいまし 御旨のままにすべてを行われる」という言葉によって表わしています。

全能の創造者なる神への、このような信仰は、異邦人の逆立ちした神観とそこから派生する偶像礼拝に対する批判と規準とを与えることになります。偶像の神はどんなに立派に精巧に作られていたとしても、それらは、所詮、神が創造された自然界に存在する被造物にすぎません。そして、人の手で細工された像は、「口があっても話せず 目があっても見えない 手があってもつかめない 足があっても歩けない」(5,6節)死んだ存在です。このような偶像を造る人間が、その偶像により頼み礼拝することは、作者である人間よりも劣る存在により頼む行為であるだけ一層愚かな行為となります。

それゆえ、この詩編の詩人は、生ける神へのまことに信頼を寄せるようにと勧告します。

イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。(9-11節)

これらの呼びかけの言葉は、偶像の神とは正反対に、歴史の中で認識され、その民に救いを明らかにした神に、真実の信仰を寄せるようにとの、呼びかけにほかなりません。

そして、神の祝福は、その様な信頼に生きる者にのみ示されます。それを、祭司は12-15節において告げます。神の祝福は、子孫を増し、途絶えることなく栄えるというものです。

このような祝福を受けて、会衆は今や天にいます主に栄光を帰します。主なる神は、ご自分の民に土地を約束されます。それは、神がその民を祝福し、神の祝福が働く生の領域です。そのような場所、課題が与えられる領域として配分されています。

この会衆は、地上の生には限界が置かれていることを知っています。そして、死者は神をたたえることができないことを知っています。そのことを強く自覚し意識して生きています。しかし、それにもかかわらず、会衆は、やはり神の永遠性を賛美し、それによって自らの死という限界を乗り越えていくことができます。

この詩編は、人間が死の力を克服する唯一の点が何であるかを明らかにしています。それは、すなわち神の永遠性であります。全能の創造者なる神が自分たちを選び、自分たちを神の民として、その救いの歴史を約束し、支配する主として臨んでおられ、自分たちは、その主との間に交わりを持っている。この絶えざる交わりこそ、命の交わりであり、この神が持つ永遠性に預かっていくところに、死の力を克服する真実の力と働きを見る信仰へと養われていったのであります。しかし、その救いの歴史の完成と、死の力の最終的人格的克服は、旧約聖書を超えたところに存在します。それは、どこまでもイエス・キリストの十字架とその死を克服するキリストの復活の中にのみ見出されます。その十字架と復活を信じる信仰においてのみ、それを克服する力が与えられます。この驚くべき救いを表される神に栄光を帰し奉る信仰にこそ、希望があります。

旧約聖書講解