詩編講解

38.詩編96編『主は地を裁くために来られる』

この詩編は、95篇同様、礼拝の招きの言葉としてよく用いられます。そしてこの詩篇の内容は、諸国民に対する招きが含まれていて、非常に福音的なものとなっています。この詩篇は、そっくり同じ形で歴代誌上16章23節以下にも記されています。そこでは、契約の箱がダビデによってエルサレムに移されたことと結び付けられていて、この詩は、ヤハウェの即位祭の礼拝式文として、また、新年祭において用いられました。

イスラエルの民は、新年祭において契約の更新のときを持ちました。神は世界の創造者として、また、正しい裁き主として、その偉大さと栄光を啓示するために、聖所に来られます。新年祭における契約の更新は、神が世界の創造者、また、正しい裁き主なる王、支配者として、来臨されることによって、新しい救いが実現し、民の内的外的生活の新しい祝福の力が与えられる時です。

それは、まさに新しい救いの始まりを指し示すとともに、終わりの日に与えられる救いを指し示す出来事でもあります。ですから、この契約更新の新年祭において民に求められていることは、神を王として迎える待ち望みの姿勢で、喜びの歌を持って賛美しつつ迎えることです。神の民は、そのような賛美によって、主の御名を讃え、主のみ救いのよい知らせを告げることが求められました。それを、次のように歌っています。

主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
国々に主の栄光を語り伝えよ
諸国の民にその驚くべき御業を。(2,3節)

実際、礼拝においてのみ、主の驚くべきみ救いの業と主の栄光とを、諸国民に宣べ伝えることができるという信仰を持って民は礼拝を守りました。

主はあまりにも偉大で、あまりにも大いなるお方である故、主に選ばれ、主に救われたものは、主のその偉大さを賛美することによってしか人々に主を宣べ伝えることができないと考えていたからです。

それゆえ、この主の偉大さに比べるなら、人間の手で作られた偶像でしかない「諸国の民の神々はすべてむなしい」(5節)存在でしかないと歌われています。

主の偉大さ、賛美されるべき理由は、「主は天を造られた」ことにあります。この偉大な主が来られる聖所には、その「栄光と輝き」に包まれ、常に、力と光輝とがあります。この栄光に満ちた主が来てくださる、ここに礼拝の喜びがあり、喜びをもって礼拝を捧げなければならない理由があります。今、私たちが捧げる礼拝にも、「栄光と輝き」に包まれて来臨されます。この栄光に満ちた主が来てくださる、ところに救いがあります。この栄光に満ちた主が来てくださる、という臨在に触れることが救いなのです。礼拝における喜びは、その救いを信仰の目で見つめるところから与えられるのです。

そして、今や、この救いは、「諸国の民」にも与かるよう招きがなされ、彼らもまた「神の庭に入り」「主にひれ伏せ」との招きがなされています。神の救いの御手は、選びの民であるイスラエルだけでなく、「諸国の民」にも広げられているのです。諸国の民も神の宮に入り、同じの前にひれ伏して礼拝することによって、その御救いに与ることができるからです。だから、「諸国の民」に向かって、次のような招きがなされています。

御名の栄光を主に帰せよ。
供え物を携えて神の庭に入り
聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
全地よ、御前におののけ。(8,9節)

そして、この自然世界も、この歴史世界もともに、主を王として迎えることによって、その基礎を固く据えられ、決して揺らぐことのない確かな土台を与えられます。世界の諸国の民が、天を造られたまことの主、ヤハウェを礼拝する時、自らの救いと立つべき土台が固く据えられていくというのです。天も地も、その中に満ちるすべての被造物も、主を迎えて喜び礼拝する、今ここに、救いが実現するのです。

この天を造られた主は、いま選びの民が礼拝を捧げる聖所に栄光を持って臨在されます。そして、「主は諸国の民を公平に裁かれる」(10節)ため、また、「地を裁くために来られる」(13節)といわれます。この世界に現在どのような無秩序と混乱が見られようとも、主が裁き主として来られるとき、主はその揺るぎない真実を持って裁かれるので、この世界に、真の正義と秩序が実現します。しかし、今招かれている諸国の民と、この世界のすべての被造物は、今この招きのときに主を拒み、主を礼拝し、主を喜ぶものとなっていないなら、その裁きに耐えることができないといわれています。

この世界の救いはただ一つ、今、招かれているこの時、今、栄光を持ってご臨在を明らかにされる神を喜び、栄光を神に帰し奉る礼拝を守ることにおいてのみ与えられます。そしてそれは、私たちにとって、イエス・キリストの来臨において実現しています。このイエス・キリストはきのうもきょうも、そして、永遠に変わることのないお方として(ヘブライ13:8)、地を裁くために来られます。主を信じる私たちは、その日、完全な救いに入れられることを待ち望みつつ、今、この時を、主を礼拝して待つものとされているのです。

その日に、私たちの真実が明らかにされ、地と世界に満ちる不真実のすべてが裁かれます。しかし、私たちは、この礼拝に諸国の民も与かり、主の救いに与かるよう呼びかけることが求められています。

旧約聖書講解