詩編講解

37.詩編95篇『新たな献身への招き』

この詩篇は、礼拝の招きの言葉としてよく用いられる詩篇の一つです。実際、イスラエルの礼拝においても、祭儀がはじまる前に用いられました。特に、新年の契約更新祭の際に用いられたといわれています。

この詩篇の内容は、大きく二つに分けることができます。

第一は、1-7節前半までで、感謝と讃美が歌われています。

第二は、7節後半から11節までで、主の言葉に聞く献身への呼びかけとなっています。

この詩篇は、恵みの神の御前に出る喜び、感謝への呼びかけをもって始まっています。

主に向かって喜び歌おう。
救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
御前に進み、感謝をささげ
楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。

という言葉と共に、礼拝する者は、喜びと感謝に満たされて主の御前にまかり出るようにと招きがなされています。

続いてその理由が、次のように述べられています。

主は大いなる神
すべての神を超えて大いなる王。

礼拝する者が主を感謝し喜ぶべき理由は、神の偉大さにあることが第一に述べられています。

そして、4-5節において。創造者として、主は、全てのものを支配される方であるとの告白がなされています。これだけで十分主なるヤハウエが礼拝されるべきお方であると考えられますが、この詩篇は、主を礼拝すべき中心的な理由をもっと別なところにおいています。

主なる神が創造者として偉大で賛美されるべきかただというイスラエルの信仰は、彼らにご自身を啓示し、主が彼らを選び、ご自分の民とし、彼らを哀れみ、ご自身の羊として養い、守られたという救いの体験を元にしています。しかもこの神は、この世界を創造された方であるがゆえに、自分たちをそのように救うことができるというより高い神への認識と告白を導きました。

この認識の順序が示している事実は、イスラエルにおいて神は、創造者として最初から知られていたのではなく、神が自由な恵みによって一方的に憐れみ、選び救ってくださったのだという救済者として知ることが先行していたということです。

ですから、この詩篇の中心は、次の7節の言葉にあります。

主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
主に養われる群れ、御手の内にある羊。
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。

このイスラエルの救いの体験を語る言葉こそ重要です。この体験、この体験をすることを許してくださった神の言葉こそ、自分たちが何はさておき第一に聞かねばならない言葉である、とこの詩篇は力強く告白しています。

この神はまた、世界を創造された方で、この神の支配の下でイスラエルは救われ、選ばれ、主の民として、今日あるを得ているのです。それゆえ、この神のなされた御業のすべてが礼拝において告白され、讃美される必要があるのです。

イスラエルは神の恵みの中を歩み続けるために、その信仰の認識をもって、この救いの神の言葉に聞き従わねばならないとの招きがなされるのです。

私という人間が神のみ前でどういうものであるか、わたしたちが神の御前でどういう民であるか、その自己確認、アイデンティティーの確認が絶えず新しくなされる、これが礼拝における重要な要素です。礼拝というのは、その様な神の前における契約更新のときです。

この契約更新際で特に覚えられたのは、出エジプトにおける、「水の問題」をめぐり、イスラエルが示した不信仰の問題です(出エジプト17:1-7)。海を渡ったイスラエルは、水の得にくい荒野を旅しました。それは、イスラエルが主への信仰に生きるための一つの試みでもありました。

しかし、この試されている民が、神を試みる愚に出たのが、メリバとマッサにおける出来事でありました。

この二つの地名は、その土地にあった井戸の名から来ているといわれています。水の少ない荒野において、その所有をめぐって、人と人との間でしばしば争いがおこりました。メリバ(争い)、マサ(試し)という井戸の名は、井戸に依存する荒野の諸部族がそこに集まって、裁きや調停をしたので、その名がつけられたのであろうとの注解者の意見もあります。

しかし、イスラエルにおいて、それは、人と人との争いではありません。自分たちを救ってくれた神に対する争いであり、試みでありました。主の驚くべき救いの御業を見ながら、主を試みたイスラエルの歴史がここで回顧されているのです。四十年間荒野を彷徨わねばならなかった民の罪の原因がここで究められているのです。

それは主の言葉、主の約束を信じて聞き従わなかった民の苦い体験です。しかし神は、それでもこの民のことをいとい、憐れみの目を注ぎ続けておられるお方であることを、この詩篇の作者は知っています。

7節の「今日こそ」という言葉は、8節の「あのとき(日)」のことと見事なコントラストの下に置かれています。

「今日こそ」という新たな決意の下に、献身を誓い、主の前に共に歩むものとなることを、主はわたしたちに求めておられます。礼拝において、主の御言葉を聞くということは、そのような献身の思い、服従の信仰を新たにして聞くことであることをこの詩編は教えています。40年間の荒野彷徨(ほうこう)は、主をひたすら求め、聞き従うことを愚かにした結果であり、それを「わたしの道を知ろうとしなかった」(10節)業としてここで回顧されています。それはまた、捕囚の民にとっても同じ意味を持つ言葉として語られています。

旧約聖書講解