詩編講解

34.詩編44篇『主よ、目覚めてお助けください』

古代の教父を始めカルヴァンも現代のたいていの注解者も、この詩を前2世紀のマカベア戦争時代、アンティオコス4世(在位前175-164年)の時代のものと見なしていますが、23節がアンティオコス4世による迫害を目前にしている証拠はありませんし、この詩の中には宗教上の迫害はいっさい語られていません。正確な成立年代を決定することは困難です。12節には、人々が戦場に倒れ捕虜として異国に移される様子が歌われ、15節には、イスラエルが諸国の嘲りに悩む姿が歌われています。これらのことから、この詩は、国家存亡の危機に直面した民族哀歌に属すると判断することができます。

この詩は、大きく五つに分けることができます。

第一連は、2~4節で、過去における神の救いの御業の回顧がなされます。
第二連は、5~9節で、信仰の告白と勝利の希望が歌われます。
第三連は、10~17節で、哀歌の形で民の外面の苦しみが歌われます。
第四連は、18~23節で、哀歌の形で民の内面の苦しみが歌われます。
第五連は、24~27節で、助けを求める祈りで全体が締め括られている。

この詩の第一連の導入部で、祈る会衆が、先祖から代々伝えられてきた神の救いのわざを自らの耳で聞いたと語っています。救いの歴史を口頭で語ることは、契約祭儀の重要な一要素であります。会衆は、契約祭儀の礼拝の中で救いの歴史が朗唱されるのを聞くとき、神との出会いを体験します。会衆は賛歌の形で救済史の内容を自らの信仰告白とすることによって応答します。

それによって、自分たちの全存在を支える神の奇跡の力を讃えます。自分たちの民の歴史を、恵みを持って神が導いたと告白する民の信仰は、歴史を独自の観点で把握しています。

この礼拝賛美において歌われるのは、勝利は、武器の力によるのでなければ、自らの能力や力によるのでもない、神の御手御腕の力であるということであります。神こそは歴史の後ろから現れ出て、ご自身で一切の出来事を治めるお方であることを信仰において悟らせます。祭儀に集う会衆はその出来事の中に引き入れられます。それ故、この礼拝において、会衆は過去を現在の自分のみにおいて体験します。それは、過去の神の救いの出来事を現在の自分の眼の前にある出来事の直中に神がいましたもうことを認識させるよう導きます。ここに、民は祭りの賛歌において過去の神の救いの業を現在におけるヤハウェの共同体の神の救いと受け取る信仰を持つに至ります。そうしてヤハウェを今も生きて働かれる神と認識しているのであります。

この信仰の確信は、5~9節において告白される勝利の希望の土台となっています。礼拝における過去の神の救いの御業の朗唱は、現在におけるヤハウェの顕現を切望させ、新たな現在の救いの力としてたえず働きます。

しかし、この賛美の形式での信頼の告白と全く正反対に響くのが、第三連の10~17節の敗北を嘆く声であります。神の愛と救いの歴史を物語る伝承からすれば、民の今の体験は、その存在が外から脅かされているだけでなく、神信仰の中で保たれている心の支えも危機にさらされているのであります。なぜなら、まことに神だけが民の歴史を掌中に納められているのであれば、あらゆる悩みと重荷とを持って敵が苦しめることは、それはとりもなおさず信仰の試練として神自らが苦しめることになるのであります。敗北、敵の略奪、廃墟と化した町々、外国に散らされていく捕らわれ人を目撃すること、隣国の嘲りの的となることなどは、神と民とのあいだにあった強い絆を失わせるものと映ります。つまり、このように民を苦しめる神の行動は、伝え聞かされた神の救いの歴史と異なり、もはやそれは信仰の理解を越えてしまう事柄となってしまうからであります。この嘆きは、礼拝祭儀において、過去における神の素晴らしい救いの事実を聞き、神を見、神との出会いを信仰において体験しても、現状は余りにも、救いの業を賛美し告白するにはかけ離れてしまっていることから生じるものであります。

しかし、これは言い換えると、このように当たり前のように神の前に苦しみを持ち出すことは、信仰の現れであるということもできます。13節には、神はその民を捨てて僅かの値で売り渡していったい神にとって益することがあるのかという疑問が出されています。この民の経験する不可解な苦難は、一体神にとってどんな意味があるというのかと問い、これこそ苦難にあった民の信仰の危機を招くものでしかない、と訴えられているのであります。

18~23節は、このふりかかった不幸の原因が自らの不実と不従順にあるとするなら、その信仰が試みられることはなかったであろうと告白しているのであります。なぜなら、その場合、民の不幸は神の義の現れを示すものとなるからです。

しかし、民にはヨブの場合と同じように、神の御名を忘れたり、異教の神々に向かって礼拝するような罪を一度も犯したことはないと言えるほど純真で真剣に神との交わりを求めてきたという自負がありました。この民の自己吟味を疑う理由はどこにもありません。そうであるなら、この民にとって苦難そのものよりも、苦難を罰として受け取ること自体が理解できないという事実が、彼らの信仰を苦しめる原因となりました。

それ故、民にとってこの苦難は、無実な者を死に至らしめる十字架としてしか認めることができない。その苦難は、「なぜ」「何のために」という苦しい問いに答えられることはないのであります。しかし、その問いに答えられなくても、それは、神が課される故に負わねばならない、それが唯一信仰に生きるものに見出される答えであります。23節はこの方向でのみ理解可能なことばであると信じることができるのであります。使徒パウロはローマ書8章36節で、この23節を引用しています。パウロはそこで、何ものもキリストを信じる人を神の愛から引き離すことはできないと述べているのであります。

人には理解することがたとえ困難であったとしても、苦難の理由も目的も神の中に潜んでいる。そうであるならば、神こそ苦難を切り抜けさせてくださる唯一の方であるのであります。

そのことを信仰の目で捉えることができるなら、神は御顔を隠し、まるで眠ってしまっているか、それとも民を忘れてしまっているかのように思われても、なお神に祈ることにおいてしか希望の道は開かれることはありません。

その信仰に立って、24節以下の第五連において、神の御前にひざまずき祈る会衆の祈りが、歯に衣を着せずにほとばしりでているのであります。

この詩に見られる不協和音は、新約聖書においてはじめて、試練を克服した人の奏でる賛歌の調和ある旋律に溶け込むのを見ることができます。キリスト・イエスにある神の愛からキリスト信徒を引き離すものは世に存在しないからであります。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38,39)

旧約聖書講解