詩編講解

34.詩編88篇『嘆き』

この詩篇の詩人は、「私は若い時から苦しんできました。今は死を待ちます。」(16節)と歌っています。この言葉に表されているように、この詩人は、若い時から病に苦しみ、その病が癒されることのないまま、死を待つ身となっている希望なき状況に立たされています。この嘆きの言葉を述べる詩人には、慰めや希望の光は一条も差し込んできません。

彼は、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19節)とこの嘆きの祈りを結んでいます。ついに彼の深い嘆き、苦悩の問題は答えられないまま終わっています。この詩篇は答なき詩篇です。

一度も神の慰めの言葉を聞かない詩人が、

苦悩に目は衰え
来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び
あなたに向かって手を広げています。(10節)

といって祈りをやめなかったのは、神を「わたしを救って下さる神」(1節)と最後まで信じていたからです。

このように「朝ごとに祈りは御前に向かい」(14節)、「昼は助けを求めて叫び」「夜も御前におり」(1節)祈りをやめないで、信仰の祈りを続けるこの詩人を神が病で苦しめるのは、彼が罪を犯したからでしょうか。そうではありません。彼の祈りの言葉には、その様な罪を告白する言葉がありません。

しかし病の者は、汚れた者として、祭儀に加わることが許されませんでした。それゆえ彼は、このことによって、神からも、人からも見捨てられた者として、神の家の前庭での交わりから遠ざけられ、神からも人からも切り離されていたのです。

まさに彼の心を支配していたのは、「暗闇」だけでした。いっそのこと信仰を持たず、神を求めて祈ることをしない方が、彼ははるかに楽で、苦しまずにすんだことでしょう。神との交わり、民と共に祭儀の場に立ちたいという願いをいだかなかったなら、その心はもっと軽かったに違いありません。

しかしこの詩人にとっては、神へ朝も昼も夜も祈らずにはおられない、祈ることをやめられない信仰を持っていたことが、一層、嘆きを深めることになったのです。

罪を告白することのない彼が、神の赦しを望みうる可能性はありません。彼は高慢なのでしょうか。そうではありません。病のゆえに、神と礼拝に出て交わることを許されず、人と交わることを許されないそのことが、彼には一番きつくこたえたのです。

主よ、なぜわたしの魂を突き放し
なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。(15節)

彼はこのように一番辛く、悲しく思っている心の叫びを語っています。

しかし彼は、これほど絶望すべきところに捨て置かれても、なお自分が呼ばわるべき相手が自分の救いの神であることを信じて、震える手を神に向かってさし伸ばし、神にしがみつくのです(10節)。この慰めのない孤独な苦悩の信仰者の暗闇しかないないという(19節)、答えられない祈りに、私たちは人間的には価値を認めるのに困難を覚えます。

この希望なき状況に立たされた者の、救いの神を待ち望む信仰を理解する唯一つの可能性は、イエス・キリストの十字架においてのみ見出すことができます。

人の義しさ、救いは、いつでも手に入れることのできる安価な恵みではありません。信仰は目に見える形であらわされる救いを待ち望むことではありません。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)アブラハムは、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」(ローマ4:18)といわれています。

イエス・キリストの十字架死の彼方にあるのは、神の救いの現実を、絶望すべき現実にあっても信じ抜く祈りにおいてのみ見出しうる救いです。

その意味で、祈りに神の答えがない中で、信仰をもって祈り続けることが大切です。神の答えが最後まで与えられなくても、神を信じて祈る者の心に、決して涸れる事のない大きな慰めと希望の泉が必ず与えられる、との確信が与えられるようになるでしょう。それは病が治る、死が遠ざけられる、遠ざかっていた親しい者が帰ってきて慰めを与えてくれる、というような具体的な恵みが与えられるということではありません。たとえ目に見える形で苦難の原因が取り除かれなくても、死に勝利される神の御手に委ねる者を、神は決して見捨てないという、希望に生きることができるからです。キリストの十字架と復活がわたしたちのためのものであるかぎり、その者の命は神の救いの中にあるからです。

しかし、この事実をまだ鮮やかに見ることを許されなかった、旧約時代のこの詩人は、この祈りを、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」という言葉で、祈りを結ぶことしかできませんでした。そこに旧約時代の信徒たちの希望の限界があるのをこの詩編は教えてくれます。しかし、大切なのは、その苦しみの気持を偽らず、神の前の最後の言葉として告白したことです。彼はそのように告白することによって、事柄を神の御手に委ねたのです。結果がどうであろうと、神以外に彼の苦しみを真剣に聞いてくれる存在がないことを知る祈り、信仰がなおそこにあります。神へのこのような嘆きしか言えないのが信仰かと思うかもしれませんが、彼は神を最後まで信じているから、このように神に嘆くことができるのです。そういう祈りもあっていいことをまたこの詩編はわたしたちに教えてくれているのではないでしょうか。嘆きによって終えるしかない生涯を、時代を超えることのできる神がイエス・キリストにあって読みせられているという答えを、わたしたちには見ることができます。そこに彼の最後まで神に嘆き続けた信仰の勝利を見ることができます。

旧約聖書講解