詩編講解

31.詩編77篇『主の御業を思い起こし』

この詩編は一人称単数形で歌われ、個人の嘆きの歌の形式を取っていますが、嘆きの対象は、この祈り手の病気や迫害のような個人的なものではありません。民族としての苦難です。この詩編の作者は、かつてイスラエルが主の大いなる力によって救われたことを回想して、民の幸福を求め、イスラエルの復興を祈っています。この詩は、北イスラエルの伝統の流れ中にあるかもしれません。16節の『ヤコブとヨセフの子ら』という表現がそれを暗示しています。この詩が歌われた状況は、捕囚からの帰還後の困難な時代を反映していると考えられます。

2-5節には、詩人が不安に悩まされて、眠れない夜に、「耳を傾けてくださる」神を求め、「手は疲れを知らず差し出して」(祈りの姿勢を示す言葉)祈ったが、「魂の慰め」を受け入れることができず、「神を思い続けて呻き/わたしの霊は悩んでなえ果てます。」(4節)という苦悩が歌われています。

そして6-10節において、詩人は、昔のことと今のことをあれこれ思い悩むうちに、神の恵みが終わって、神は沈黙されたのではないかという同じ質問を繰り返すだけで終わっていますが、この心に迫る告白は、彼の時代の悩みがどれほど深く神についての悩みになったかを物語っています。

「主はとこしえに突き放し
再び喜び迎えてはくださらないのか。
主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。
約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
神は憐れみを忘れ
怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」(8-10節)

この言葉は、もはや神は現れることなく隠れてしまい、神に突き放されてしまったのではないかという不安を歌っています。詩人は神の憐れみと恵みがなければ、ますます絶望に駆られます。これほどまで深く恋焦がれる思いが全然役に立たないことこそ、ついにこの詩人の真の悩みとなりました。

「いと高き神の右の御手は変わり
わたしは弱くされてしまった。」(11節)

この言葉は、詩人の神への深い失望を表しています。人間は隠れたる神からその奥義を奪い取ることはできません。神が沈黙しておられるのに、無理やり口を開かせることもできません。

隠れたる神、沈黙せる神の前に、詩人は、神の支配が、以前と全く違う様相をしていると考え、「わたしは弱くされてしまった」とすてばちなあきらめに満ちた告白をしています。

多くの人が信仰を破綻させていったのと同じ足どりで、詩人は歩んでいます。しかし、そこまでどん底に彼の信仰は落ち込み、神の誠実を疑うようになって、詩人は、はっと気づかされました。この詩人を襲った霊的スランプの根本原因は、神の沈黙、隠れたる神にあるのではなく、神の本質や、支配を強いて自分の尺度に合わせて、自分の身の丈で神を崇めたがった不見識にあることに、そのどん底から気づかされました。

詩人を根本的に転換させたきっかけは、11節に示されている彼の絶望する思いの中にありました。詩人の嘆きが自分自身と自分の悩みに終わってしまう限り、それは決して信仰によって神と触れ合うことはありません。それは決して神に向かうことのない、迷路となることを告白せざるを得ません。

「いと高き神の右の御手は変わり
わたしは弱くされてしまった。」(11節)

という認識と告白によって、神を自分の尺度に合わせてみる不見識に詩人は気づかされたのです。

そこで彼は12-16節において、昔行われた神の奇しき御業を想起し、その御業を賛美することを始めました。この詩人が苦難の中でどうしてもできなかったのは、神の奇しき御業を心から賛美することです。それが今できるようになったという心の急変は、自分が神を疑い迷っていたことを、新たに洞察できるようになったからであるということだけでは説明がつきません。

実はこの洞察そのものが、自分の考えに基づくものではなく、悩みの中で暗中模索して果たされなかったことが、いま新しく啓示された生ける神との出会いによってであります。それを彼は15節において、

あなたは奇跡を行われる神
諸国の民の中に御力を示されました。

と表明しています。

この嘆きから讃美への内面的変化とその根拠になっている詩人の自己認識は、「隠れたる神」(deus absconditus)から「現れたる神」(deus revelatus)への転換ですが、それが自ら引き起こしたことではなく、神の啓示活動によることは、きわめて意味深いものがあります。

詩人は、自分の道を歩んで神を見失ってしまったまさにその瞬間に、聖なる伝承を通じて神の啓示に触れたのです。この改めて贈られた神との触れ合いは、彼が再び足を下ろす大地に他なりません。

17-21節において、詩人は、救済史の伝承にしたがって、神を讃美します。創造、海を渡る奇跡、荒野における神の救いは、神の尊厳と威力を啓示する出来事です。

それは、ご自身の民を、神が自然を超えたところから支配し、介入することによって、民が現在の苦難の中から救われた出来事でありました。そうであるなら、神は、現在、苦難の中にある民を、今も助けることができる生ける神であるはずです。今は希望なきような現実であっても、この生ける神に、希望を持って完全に身を委ねることが信仰であることを詩人は告白します。そして、同じ信仰がわたしたちに求められています。そこから、神にある希望ある未来へ生きる転換が可能となります。

旧約聖書講解