詩編講解

28.詩編63篇『主の慈しみは命にも勝る』

この詩篇は、聖所での礼拝の恵み、喜び、感謝を歌っています。この詩篇の作者は、ただ神を仰ぎ、神を神の恵みを待ち望んでいます。それ故、彼にとって神を礼拝することは、人生の最高の喜びです。彼の一日は、神を礼拝することによって始まり、終わります。これがこの詩篇の作者の一日を貫く柱です。

2節の2行目、「わたしはあなたを捜し求め」となっていますが、「捜し求め」の原意は、「夜明けの頃」です。古代語訳の聖書では、この句を「朝早くからわたしはあなたと共にいる」と訳しています。この詩篇の詩人の一日は、そのようにして始まります。

そして一日の終わりは、「床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」と歌われていますように、彼は夜通し神を求め、夜明けと共に神を求め続けるのです。

わたしの魂は夜あなたを捜し
わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。(イザヤ書26:9)

この詩篇の詩人の信仰は、イザヤと同じ信仰に立っています。

聖所での礼拝の日を待ち望む彼の思いもまた同じです。その日の朝、彼は「朝早くからわたしはあなたと共にいる」姿勢で神を待ち望みます。

神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め
わたしの魂はあなたを渇き求めます。
あなたを待って、わたしのからだは
乾ききった大地のように衰え
水のない地のように渇き果てています。(2節)

荒野を旅する者は、体が乾ききり、まるで乾いた大地のように、一滴の水もない地のように、乾き果てることがあります。その様子はわたしたちには分かりにくいかもしれません。パレスチナの荒野における夏の日照りは、想像を絶するものがあるといわれます。発見された古代の土器に水を注いでも、じゅぅーと音をたてるだけで、水は少しもたまらないといわれます。

この詩人は、それほどの渇きを覚えて、神の言葉を待ち望み、夜明けとともに、朝早くから聖所に行って、神と共にあることを求めたのでしょう。それほどの強い神を待ち望む信仰をもって、主の日礼拝のときを持った彼が経験したことは、神を見るということを許されたことでした。神が「力と栄光」を啓示されるのを彼は見ることが出来ました。

聖所での祈りの時に神の恵みが自分にも与えられるという確信のもとに、この詩人はその憧れを現実に味わい知ることを許されました。神の慈しみ(ヘセド、この語は神の契約に対する「愛」、「誠実」を表す)、神の偉大さ、栄光(カーボード)が人に向けられました。これこそ神を待ち望む者にとって、他の一切の価値に勝る人生の宝です。

命は最高の価値ですが、神の慈しみ(神の約束への忠実さ)をここでそれと比較しているのでありません。むしろ神の慈しみこそ、人に命を与える根本的な恵みであると詩人は認めているのです。

3節の「仰ぎ望む」という語は、特別な見方を示しています。彼は預言者のようにヴィジョンを持つものとして、神の言葉の啓示に与る者として、聖所に立って、「あなたの力と栄光を見ています」といっているのです。

彼は聖所での礼拝で、神の力と栄光の啓示を受け、神の約束への忠実さ、慈しみ(ヘセド)に与って、その喜びを感謝して誉め歌を歌います。

命のある限り、あなたをたたえ
手を高く上げ、御名によって祈ります。
わたしの魂は満ち足りました
乳と髄のもてなしを受けたように。
わたしの唇は喜びの歌をうたい
わたしの口は賛美の声をあげます。(5-6節)

荒野は水がなく、不毛の地であるだけでなく、敵の攻撃にもあう危険な場所です。神と共にあることのできない、神との礼拝の交わりを欠く生活は、その様な危険な場所にたつ人生を表しています。

しかし、荒野を旅する者にとって、「乳と髄のもてなしを受ける」(6節)ことは、最高のもてなしを受けることを意味します。

礼拝において神の力と栄光の啓示を受け、神の慈しみに与ることは、荒野を旅する者が、「乳と髄のもてなしを受ける」ことに匹敵する、無上の光栄であり、喜びである、とこの詩人は述べているのであります。神を礼拝する者は、人生においてそのような喜びに与ることができるのです。彼の唇は、「喜びの歌をうたい」「讃美の声」をあげることによって、喜びを与える神を称えます。

その喜びの中で、詩人は神の救いを確信し、魂は平安で満たされます。詩人はそれを8,9節で次のように歌っています。

あなたは必ずわたしを助けてくださいます。
あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。
わたしの魂はあなたに付き従い
あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。

「あなたの翼の陰で」とは、至聖所にある契約の箱を指して言われています。契約の箱のふたは、神の律法の書に従って生きるものを守るように、ケルビムが翼を広げて向かい合ってあります。それはまさに神の言葉に聞き従うものに示される神の臨在を表します。神の臨在と守りの確かさは、礼拝の交わりの中で深く知ることのできる体験であり、その体験が地上の生のすべての営みを支える力となり、渇きを覚えやすい日々の生活に潤いを与えるのです。聖所(礼拝)で聞いた御言葉がわたしたちの魂を泉とする潤いの力となって働くからです。

その信仰を持って神の聖所にまかり出るものは、神の臨在のもとで、敵から守られ、神の懐で憩うことができ、平安を与えられ、心からの喜びを与えられます。この礼拝の喜びを奪おうと敵の攻撃が加えられますが、詩人は、神と交わり、神の臨在、守りを確信していますので、その敵を恐れません。彼は決して自分の力でその敵の攻撃を退けることができると高慢になることはありません。彼は、神の守りを信じるがゆえに、「どうか我らを助け、敵からお救いください。」 (10節)と祈るのです。その祈りの中で、自分の生命を奪おうと狙う敵は、神に裁かれ、滅ぼされることを確信するのです。

なぜなら、敵は詩人の信仰を否認しただけでなく、その行為で、神の真理を否認しているので、神がそれを許されるはずがないとを彼は知っているからです。神はご自身に信頼し希望を置くものを守られます。

わたしたちの信仰を否認する敵の力から打ち勝つ最善の道は、神に身を寄せ、神を礼拝し神の臨在にふれ、神の守りを確信することです。そうすることによって敵の力を無力化することができます。神に身を寄せ、神を礼拝する者を、神はご豊かな喜びと憩いを与えてくださいます。神は渇きを覚えるわたしたちに潤いを与え、魂を満ち足らせてくれるのです。詩人はそのことを信じるようわたしたちにも呼び掛けています。詩人は「主の慈しみは命にもまさる恵み」(4節)と述べています。命は最高の価値ですが、主の御前にまかり出る礼拝者に与えられる神の慈しみ(神の約束への忠実さ)は、それを超える力として私たちに注がれ、わたしたちに命を与える恵みとして与えられるのです。だから詩人は、神の慈しみこそ、人に命を与える根本的な恵みであると語っているのです。詩人がわたしたちに一番伝えたいことはそのことです。

旧約聖書講解