詩編講解

23.詩篇第49篇『人生の謎』

この詩は知恵に関する詩篇に属します。作者は、大昔から繰り返し問われてきた人生の謎の一つに答えようと試みています。それは、作者自身が直面した人生の状況の中から考え抜くことによってなされています。作者は庶民の出で、富める権力者に痛めつけられている人間です。彼は富める敵の力に対して不安と嫉妬の思いが込み上げてくるのを抑えながら、心の平衡(へいこう)と安らぎを与える思想をここに告げ知らせています。この詩の背景には社会的な問題があります。この世の財産についての倫理的宗教的な判断と態度とが問題になっています。この詩人は、人間とこの世のものへの隷従から真に自分を解放しうる立場に立とうとして、唯一の恐るべきもの、頼りうるものに鋭い目を向けています。そして、ついに彼は永遠を見つめ、死を定められた神に目を注ぐことによって、その立場を発見するに至ります。

2~5節は、この詩全体の導入部です。

詩人はすべての国民、土地に住む人々に耳を傾けることを求めます。富める者にも貧しい者にも求めます。彼が求める答えは、一部の人だけに当てはまるものではなく、すべての人に通じるものでなければならないからです。彼は知恵を語ることを欲しますが、人に語る前にまず、「格言に耳を傾け」ています。彼が求めるのは人間の知恵ではありません。

Ⅱ列王3:15によれば、預言者エリシャは、楽を奏する者を連れてこさせ、その演奏によって、主の霊が臨むのを経験したと言われます。彼は同じ姿勢で主の霊が臨むのを待ちます。そうして人生の謎を解くことを欲しています。しかし、この場合に、音楽が作者にとって特別な意味があったかどうか確かめることが出来ません。音楽が魔術的な意味をもしもっていたとするなら、それは問題でしょう。ここで見失ってならない大切なことは、彼がその謎を解く鍵を、自らの力に求めたのではなく、神に求めたという事実の中にあります。

詩人を苦しめた問題が6~7節に語られています。

詩人は彼に暴虐を振るう悪意ある敵に取り囲まれていました。そして、彼らは「財宝を頼みとし、富の力を誇る者」であるといいます。この多数の敵に対して、彼は二つの不快な感情を抱いています。それは、恐怖と嫉妬です。それは、権力を傘に暴力を振るう権力者に対する抑圧された者の恐怖の感情であり、自分の乏しさを痛切に感じさせる、富める者への嫉妬の感情であります。この感情はどこにでも見られるものであり、多くの人が共有してもっているものであります。私たちもまた、この感情から決して自由でありません。そういう意味では、これは私たちの人生においても普遍的な問題であります。

ところで、彼はどのようにしてこれらの感情を克服することが出来たのでありましょうか。現実に身をまかせ、放置することによってではないでしょう。それはもっぱら、物事を永遠の相の下において、永遠の光の中に移して、真の価値をそこから認識しようとすることによってであります。不安とか嫉妬の感情の裏側には、人を恐れたり羨んだりするものの価値と意義を尊ぶ心があります。しかし、人間の力と富の価値と意義を終わらせる死から眺めるなら、力も富も何の価値も見出すことが出来ません。死にぶつかるとき、あらゆるものが揺らぎます。詩人は、この価値の転換を、死と、死を定められた方に目を向けることによって学んだのであります。

神に対して、人は兄弟をも贖いえない。
神に身代金を払うことはできない。
魂を贖う値は高く
とこしえに、払い終えることはない。
人は永遠に生きようか。
墓穴を見ずにすむであろうか。(8~10節)

ここでは、人間が超えることのできない死の問題から人生の意味、そこから神との出会いの問題が省みられています。

人間はだれ一人として自分の力で死を超えることが出来ません。人間が超えることの出来ない限界として死が存在します。人間の力も富も死から自分を贖うことは出来ません。人間はこの死において神の力と出会います。言い換えるならば、人間は死において神の力と出会うことを避けることが出来ないということです。死が神の力であるが故に、人間の力はぶつかればみな砕けざるを得ません。神の力と人間の力とは次元が異なります。その差は量ではなく質です。神を相手にして、人間が魂を死から贖うには値が高すぎるのです。人間がこの世だけを頼りにし努力するなら、その努力はすべて、神を限界や敵対する反対の力としてしか認識できません。そのような者にとって、神は自分たちを否定する存在としてしか見ることは出来ません。この世の快楽はすべて永遠に続くことを望みます。しかし、神は死の中にその努力の限界を設けられます。ここに、ただ自分だけを意識する人間の無意味と無力が明らかにされます。

11~13節は、見方を変えれば、死はこの詩人の教師であることを明らかにしています。死は知恵ある者にも、無知な者にも平等におとずれ、どれほど多くの財宝を集めたとしても、それらは死ぬときには他人に残すことになります。歴史に名を残すほどの権力者といえども、自分が横たわる墓の土の底だけがとこしえの家となります。人間の栄光の果てとはこのようなものであります。

詩人は、「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。」(13節)と歌います。彼はこう歌うことによって、根本的に考えてみれば、人間の力を畏れ、その富を羨(うらや)むのは全く根拠のないことであります。

14~16節で詩人は、今まで述べたことを回顧しながらもう一度纏めています。

神を最後の砦としない、自己の力のみを頼る自信満々の生の土台は、死に臨めば、ことごとく崩れさってしまいます。自らの力を頼みとし富にのみ生きる者は、死に際しては、羊の群れのようにおとなしく、死が牧者となります。

こうしてこの詩人は、死が決定権を持つこのような人生と、神が決定権を持つ自分の人生とを比較します。詩人は、自らの力に頼らず、死と生を司(つかさど)る方に身を置き、この方によって立ちます。

彼にとって生命の重みは、過ぎ行く地上の財産にはありません。神との生きた関係にありますから、彼が体験せざるを得ない死も、すべての生の価値を崩壊させる恐怖とはなりません。詩人にとって、死を支配するものは、彼自身をその力から贖う神の力であるからです。この神との関係こそ、詩人にとってまことの生を意味するものとなります。だから、詩人には神が自分を本当に死から贖うであろう希望を抱くことが許されています。それどころか、神があるがままの自分を受け入れてくださり、いま既にある命の交わりを今後一層緊密に形成してくださるであろうという希望を抱くことが許されるのであります。それは、実に、死を越え、死を内側から克服する信仰の希望であります。詩人が得た人生の謎を解く手掛かりは、死の力に打ち勝つ信仰の希望の勝利の中にあります。詩人はこれがどのようにして起こるか述べていません。それは、地上の人間には隠されています。だがその点に信仰の本来の関心があるわけでもありません。

詩人にとって、信仰とは、「神が死後わたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」(16節)との確信があれば充分なのです。それ故、ただひとり死に勝つ力を持っておられる神への信頼、その信頼に基づく永遠の希望だけが、詩人の人生の中心問題となります。彼が誇る信仰の確かさは、起ころうとする事柄の知識ではなく、自分を支える力であり、具体的な点ではどう進むべきか判らない場合にも自分を進ませる力なのです。

異なる方が死をもって人生を決定するというこの確信こそ、自分のことしか知らない人間が、避けることのできない死に直面して崩れ落ちそうになる瞬間にも、慰めとなり助けとなるのです。人間とは、その死に向かう無力さの中で、その生の最後の決定権を持つ神に委ねることにおいて真の慰めを得ることのできる存在であるのです。

旧約聖書講解